現役指揮者による本音レビュー。『TAR/ター』は言動、団体名…すべてリアル!?「現在のクラシック業界を凝縮したような映画」
世界最高峰のオーケストラ“ベルリン・フィル”で女性初の首席指揮者に就任して7年、作曲家としても活躍するクラシック界の女帝“リディア・ター”が、ある疑惑を掛けられ、追いつめられていく顛末を描いた『TAR/ター』(公開中)。オスカー女優ケイト・ブランシェットの最高傑作との呼び声も高い本作は、第95回アカデミー賞で作品賞、監督賞(トッド・フィールド)、脚本賞、主演女優など6部門にノミネートされた。
クラシックに詳しくない映画ファンでもエンタメ作品として楽しめる魅力から、華麗にタクトを振りながらもプレッシャーや生みの苦しみ、疑惑で追い詰められ常軌を逸していくターという人物への共感、また“恐るべきクラシック音楽界の裏側”について、現役指揮者、坂入健司郎に同業者ならではの視点で語ってもらった。
「この映画を観てからずっと夢に出て来て、眠れなくなっちゃいました」
ズバリ、本作のおもしろさを「人間と人間の関わり合い、ドロドロした思惑が渦巻きつつ、すべて伏線回収ができる。その作りが巧妙なヒューマン・エンタテインメントですね。むしろ濃い人間関係がうごめいているからこそ、クラシック音楽界を舞台にしたのでしょう」と、坂入。加えて「敷居が高いと言われがちなクラシック音楽の世界ですが、登場人物の言動に驚き、笑い、ただ映画として夢中に楽しんでいるうちに、その高い敷居を飛び越えていることに気付かされるはずです。なにしろ現在のクラシック業界を凝縮したような映画なので」と楽しみ方を伝授してくれた。
そんな坂入だが、映画の感想を聞くと開口一番は、「指揮者として、リディア・ターに感情移入しすぎてしまって…。この映画を観てからずっと夢に出て来て、眠れなくなっちゃいました。ある意味、トラウマ映画。同業者にはおススメ出来ないです」と苦笑いする。その心は「ターと同じような体験を、自分もするのではないかという恐怖」だと告白。とにかくターが見舞われる事態、ターの周辺でうごめく人々の言動や思惑、事情が妙にリアルなのだという。「クラシック界の女帝といわれるような状況になっても指揮者って、ときには楽団員や生徒に厳しいことを言わなければいけないし、見返りを求めてくるスポンサーに対しても丁寧に応えなければならなりません。ターが講義中に生徒と言い合いになるシーンがあります。ターも言葉遣いがもちろん悪いんだけれど、あの生徒にもよくない部分がある。有名な指揮者に仕掛けられるトラップって多いと思います」とターに同情的だ。
「主人公のターが女性であることも非常にリアル」
「本作の中で唯一フィクションなのはターという人物そのもので、それ以外の固有名詞はすべて実在する人や団体」というほど、クラシック音楽に明るい人が見ると、より小ネタ的なお愉しみがゴロゴロ転がっている。ターが薫陶を受けたとされるレナード・バーンスタインが実在する著名な音楽家だと知る人は多いだろうが、「ターが相談した元首席指揮者が、『告発されたらお終いだよ。レヴァインとデュトワもそうだったでしょう』と言うシーンがあります。この2人も実在の人物、且つ実際に告発されて一時は第一線を退かねばならなくなった方々なのです。詳しい音楽関係者が見たら『え、そんなこと言ってしまうの!?』と絶句するはず…」と驚く。
指揮者の世界は、奏者と比べても男性上位の印象があるが、近年は女性のウェイトも上がっているという。「主人公のターが女性であることも非常にリアルなんです。ここ10年くらいの流れでしょうか、欧米では女性指揮者が抜擢され始めていて、指揮者=男性というイメージはすでにありません。女性指揮者がベルリン・フィルの首席指揮者になって指揮界の頂点に君臨するというような将来も、容易に想像がつく。そこにもリアリティを感じます」と解説する。
かつての指揮者志望の教え子の死は、ターが追い詰めたのだと“疑惑”を掛けられるが、彼女に対するターの言動も“あるある”だというから驚きだ。「指揮者ってひとつのオーケストラに1人しかいないので、ベテランと若手でも競争です。たとえ先生でも、めんどうな教え子をかわいがらないというケースは容易に想像がつく。だから僕にはターと教え子のやりとりは案外普通に受け入れられて、プロダクションノートの解説を読んだ時もターだけが悪いとは感じなくなってしまって。だって、ター自身はもっとエゲつないことをされてきたうえで、のし上がってきていると思いますから(笑)。僕はサラリーマンをしていた経験から、いいビジネスをするならば仲間をどんどん増やしていくべきだと信じていますが、結局は叩いて、叩かれて、ということはどの世界にも存在するのです」。