山田太一の代表作が海を渡って映画化。サーチライト最新作『異人たち』で見える、巧みな脚色力
「岸辺のアルバム」や「ふぞろいの林檎たち」など、1960年代から半世紀以上にわたって数々の秀作を世に送りだしてきた山田太一が11月29日に死去した。日本映画界の名匠である木下恵介監督に師事した後にテレビドラマの脚本家としての道を歩み始める山田は、小説家としても優れた作品を輩出してきた。その代表作の一つが、1987年に発表された「異人たちの夏」。
この作品は、1988年に大林宣彦監督によって一度映画化されている。それから30年以上の時を経て、同作が海を渡ったイギリス・ロンドンで新たな物語として生まれ変わったのが、先日第36回東京国際映画祭でアジア初上映を迎えたアンドリュー・ヘイ監督の『異人たち』(2024年春公開)だ。
ロンドンのタワーマンションにひとりで暮らす脚本家のアダム(アンドリュー・スコット)。幼いころに両親を事故で亡くした彼は、それ以来、孤独に生きてきた。ある時、両親との思い出を綴る脚本に着手し始めたアダムは、同じマンションに住む謎めいた住人のハリー(ポール・メスカル)と知り合い、徐々に関係を深めていく。同時に子どものころの世界に引き戻されていく彼は、自分の生まれた家を再訪し、当時のままの姿の両親と再会することに。
孤独な脚本家という主人公の職業、不思議な雰囲気を放つ住人と恋仲になること、生まれ育った家で若き日の両親と再会すること。おおよそのストーリーラインは原作や大林版と同じであるが、舞台が東京からロンドンに置き換えられたことで、山田の生まれ育った浅草の街の雑多な姿は閑静な郊外の住宅街へと変化する。そしてなにより、主人公のアダムがゲイであること(したがって彼が出会う同じマンションの住人の性別が男性に書き換えられている)でこの物語の持つテーマが一新され、それぞれの“交流”に与えられる意味も異なっていくのである。
大林版において主人公の前に現れた若き日の両親は、彼が数十年間味わってきた孤独感を埋めてくれるような、純然としたノスタルジイの対象として描写されていた。それに対してこのヘイ版では、存命中の両親に言いだせなかったゲイであるという秘密をカミングアウトする相手として存在する。物語上の現在地から過去に遡ってぽっかりと空いた穴を埋めるという意味では共通していながらも、より主人公に対して具体的な意味――すなわち彼自身の生き方を肯定する役割を果たす。
そうなると自ずと、主人公が恋仲になる奇妙な住人の扱い方も変わってくる。もっともこれは物語の核心に触れる部分であるのであまり多くを語ることはできないが、アダムは終盤においてハリーの重大な秘密を知ることになる。その際にもたらされる主人公の選択もまた、大林版とは正反対なものであった。大林版はその後のエピローグとして再び両親の残影を求めるかのように更地となった生家の場所を訪れていたが、ヘイ版ではそうはならない。主人公が生きていくうえで必要とするのは、両親という“過去”ではなく“現在”と“未来”、すなわち恋人であり彼自身であったということだ。
今回のヘイ版、季節設定が夏ではないこともあって邦題は『異人たち』とされているが、原題では『All of Us Strangers』(=我々は皆、異人である)。ちなみに原作小説の英訳時のタイトルはシンプルに「Strangers」であった。日本語における“異人”は、一般的には異なる属性の人々を示すときに使われるもので、つまりは生者から見た、生者のコミュニティに介入してきた死者という意味合いがあるといえよう。
これが英語として“Stranger”になることで、そこには他人やよそ者といった隔たりをもった対象としての意味合いも強く与えられるようになり、また同時に“しばらく音沙汰のなかった人”も指されるというのだから興味深い。主人公にとっても両親にとっても、両者はしばらく音沙汰のなかった家族であり、またロンドンの街のなかで疎外感に苛まれる主人公もまた、隔たりの向こう側から見れば“Stranger”であり続ける。
街のなかに異物のようにたたずみエレベーターでさらに隔絶された深部へと向かうことになる集合住宅が主人公の孤独感を浮き彫りにさせ、地面から直接居室へと導かれる戸建て住宅が温かみのある空間として対比される点は、ヘイ監督のデビュー作となった『WEEKEND ウィークエンド』にも通じている。また高層階の窓から地面に立つ相手を見下ろすショットや不安感に苛まれる地下鉄の描写もデビュー作につづいて用いられる描写であり、主人公を“Stranger”としてますます顕在化させていく。
国境や時代を超えた原作の取り扱いに、ヘイ監督自身の一貫した作家性も器用に織り交ぜる。“脚色”は劇映画における極めて基礎的な技術ではあるが、近年の作品でここまで精密なものがあっただろうか。山田作品が映画化されたのは、『飛ぶ夢をしばらく見ない』(90)以来のこととなる。この映画を機に、日本の映像史を彩ってきた極めて優秀なストーリーテラーの作品群がふたたび注目を集めることを切に願う。
文/久保田 和馬