観客の度肝を抜く濱口竜介監督『悪は存在しない』。映像とせめぎあう言葉の精度と響き、その圧倒的おもしろさ【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

インタビュー

観客の度肝を抜く濱口竜介監督『悪は存在しない』。映像とせめぎあう言葉の精度と響き、その圧倒的おもしろさ【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】

「できることなら、自分が影響を受けてきたような映画へのブリッジになるといいなと」(濱口)

――はい、それはどの作品にも共通している点だと思いますし、少なくとも、物語として読み解くのが難しいような作品を撮る監督ではないと思ってます。

濱口「常に観客に楽しんでもらいたいと思ってますし、自分自身、難しい映画を観る時は大概途中で寝てしまうようなところもあるんで(笑)」

――(笑)。

濱口「基本的には、誰が観てもおもしろい作品を作った上で、できることなら、自分が影響を受けてきたような映画へのブリッジになるといいなという想いも含めて、“入りやすい映画”というのは心がけています。その時に、やっぱり登場人物の1人1人がある程度この現実に存在している人間として見えるっていうのは、“入りやすさ”という点で大事なことだと思って脚本を書いてますね」

――そうですよね。「こんなやついないよ」ってなっちゃった時点で、ちょっと普段とは別のスイッチを入れないと観られないんですよね。敢えて言ってしまいますが、いわゆるシネフィル的な文化圏の作家の作品にはそういう作品も少なくないというか(苦笑)。だから、濱口監督のおっしゃる“ブリッジ”という言葉がすごく腑に落ちるんですけど。

大学に入り、映画にどっぷりな生活になる前は「テレビドラマばっかり見てた」そう
大学に入り、映画にどっぷりな生活になる前は「テレビドラマばっかり見てた」そう撮影/湯浅 亨

濱口「ただ、そうは言いましたけど、意識的にそうしてるというより、単純に、自分は大学に入ってから映画をちゃんと観るようになったわけですけど、その前はテレビドラマばっかり見てたわけです。一方で世の中には純粋培養みたいな人もいるわけじゃないですか。そういう、『あらゆるタイプの映画を見る』みたいな生粋のシネフィル生活みたいなものを自分は通ってはいないし、実際問題、おそらくシネフィルと言えるほどの作品数は観ていないっていうところはあるので。必然的にちょっと濁ったものにはなるという感じもありますね。結果的に、シネフィル的ともそうじゃないとも言えない、どっちつかずの映画が自分の映画を観てきた体験から出来上がることになるというか。それがもう自分の味というものなんだろう、と受け入れている感じです」

――自分にとって難しそうな映画に挑んで、そこで寝てしまう体験というのも非常に重要な体験だと自分は思っていて(笑)。

濱口「重要ですよ。ついこないだも寝たばかりです(笑)」

――それと、濱口監督の作品というとショットであったり、カメラの動きであったりということが頻繁に取り上げられがちですが、自分は台詞のニュアンスの緻密さに痺れてしまうことが多くて。『悪は存在しない』でそれが最も顕著だったのは、住民への説明会のシーンで。説明する側は立場上、伝聞や推定といった借り物の言葉でしかしゃべれない一方、住民側は基本的に自分の言葉を断定形でしゃべっている。その対比を、かなり意識的に書いているんだろうなって。

『悪は存在しない』は公開中
『悪は存在しない』は公開中[c]2023 NEOPA / Fictive

濱口「そうですね。日本語って、外国語と違って発話そのものが平坦な分、使用する言葉や文字そのものによってニュアンスを調整する言語という印象があって、語尾は最終的にニュアンスを修正したりもできるものですよね。その語尾を取ってしまうと、言葉がむき出しに、断言的になって、より力強くなるっていうのは、特に巧というキャラクターに関しては狙ってやっていることです。あの説明会のシーンって、演じる側にとっても、『このキャラクターはこういうキャラクターなのか』という理解が深まっていくような、そういう場面でもあるので、こういう言葉のひとつひとつが演じる人にとっての情報になるように願って書いてもいたと思います。そういう点で、単なる台詞というだけでなく、それ自体が演出という思いで台詞は書いてます。その場面で、その台詞を発することそのものが、その俳優の身体全体に働きかける演出にもなってるっていう」

「タイトルも秀逸だなと。実際に作品を観た後に、そのタイトルが頭の中にいろんなかたちで反響してくる」(宇野)

――断定形でいうと、やっぱり今回はタイトルも秀逸だなと。濱口監督が日本映画界に帰属意識を持たれているのかわからないですが、自分が機会があるごとに書いてきたのは、日本映画――この場合オリジナル作品のことですが――のタイトルのコピーセンスのなさで。例えば、コミックだったり、ライトノベルだったりの世界って、それこそ四文字に略されたところまで考えるみたいなことを、みんな当たり前のように作者がやってるわけじゃないですか。

濱口「なるほど、はい」

ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした『悪は存在しない』はタイトルも秀逸?
ベネチア国際映画祭で銀獅子賞(審査員大賞)受賞を果たした『悪は存在しない』はタイトルも秀逸?[c]2023 NEOPA / Fictive

――例えばバカみたいに長いタイトルが流行ったりするのも、それによって必然的にみんなが略して、それによって広がるみたいな、そういう経験を積み重ねている。一方で、映画を作ってる人たちって、どうして抽象的で独りよがりなタイトルばかりつけるんだろうってずっと思っているんですよ。タイトルの段階で「観たい」と思わせてくれる作品があまりにも少ない。でも、今回最初に『悪は存在しない』というタイトルを聞いた瞬間から、「どういうこと?」「観たい!」と思わせてくれるし、実際に作品を観た後に、そのタイトルが頭の中にいろんなかたちで反響してくるという。

濱口「自分のこれまでの作品でそれがどれだけうまくいったかはさておき、タイトルは本当に大事ですよね。 “この映画のタイトルはこうだ”とどこかで思いながら観客は観るわけですから。タイトル自体は、物語そのものではないので、そのタイトルと物語がうまい具合に響き合ってくれたらいいなっていうことは、いつも思ってつけています。『悪は存在しない』に関して言えば、最初は手がかりをどうつかんだらいいのかわからなくて、石橋さんが仕事をされてるスタジオの周辺でリサーチを始めたんですよ。カメラマンの北川(喜雄)さんと一緒に。そこで『こういうショットが撮れるんじゃないか』っていうことを自然の風景の中でやっていくところから始めたんですけど、まさに作品の冒頭にあるようなあの景色の中にいると、“この自然の循環の中に悪とか悪意は存在しないよね”って思えてくるんです。東京のような情報に溢れた環境の中にいる時にずっと感じてきたようなものが、スポンと一回抜けるみたいな。それで、そのままそれがプロジェクトタイトルになって、最後までどうしようかなって思ってたんですけど、この物語にこのタイトルがついたら、それがうまく働いてくれるんじゃないかなって改めて思えてきて」


――なるほど、捻り出したものではなく、最初はわりと素朴なところから出てきたタイトルだったんですね。

濱口「そうなんです。基本的に自分が作ってるのは人間ドラマであって、その登場人物1人1人をちゃんと立てていくという話をしましたけど、結局のところ、人間1人1人をちゃんと立てていくっていうことは、善悪のわからないところに入っていくっていうことだと思うんですよね。人間1人1人と向き合った時に、そこにぱっきりした”悪”っていうものも存在しないし、ぱっきりした”善”っていうのも存在しないっていうのが、自分のそもそもの人に対するものの考え方でもあるので。そういう点で、このタイトルとも響き合うように物事が展開していくだろうというのは、書きながら大体の見当はつけていたんですけど。でも、その解釈――高橋とか黛とかも決して悪ではないよね、人にはみんな理由があるよねっていうところに落ち着くと、それはそれでおもしろくないっていうのはあると思ってはいて。なので、このタイトルにはもうちょっと違う働き方をしてもらうように、最後のところはなっているという」

舞台は長野県の架空の町、水挽町。美しい風景もスクリーンで堪能してほしい
舞台は長野県の架空の町、水挽町。美しい風景もスクリーンで堪能してほしい[c]2023 NEOPA / Fictive

――なるほど、そうですよね。最後のところは…これはネタバレを気にしてというわけではなく、観客1人1人に投げかけられているものだと思うので、こういうインタビューの席で作者の意図をダイレクトにお伺いするものではないような気がしていて。

濱口「そうですね。タイトルも含め、自分が解説して、なにかの解釈に収斂させないことが大事だとは思っています。自分も正直、最初の観客みたいなもので、『こうなるのか』って思いながらやってますから」

――ただ、ちょうど日本では同じ時期にジョナサン・グレイザーの『関心領域』のような作品が公開されたり、あるいは映画の世界の外でも、複数の大きな戦争が起こっているこの時代に、このタイトルやあの結末を通して、やっぱりいろいろ喚起させられるものがありますよね。

濱口「まず基本的に思うのは、誰かを善だとか悪だとか名指すのは、思考停止の結果だということです。もちろんなにかを善で、なにかを悪としないと、社会の運営が成り立たない時というのはあると思います。でも、少なくともそういうものを誰か個人に対して確定できるはずがないとは、フィクションのつくり手としては思っていますね」


宇野維正の「映画のことは監督に訊け」

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