『Cloud クラウド』黒沢清が語る、”ジャンル映画”と添い遂げる覚悟。“作家”ではなく“職人”であると自認する、その理由【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「黒沢監督も、気が付けば、そうした映画界の罠みたいなものをうまくくぐり抜けられたのかな?みたいな」(宇野)
――『蛇の道』と『Cloud クラウド』についても、先ほど「たまたま」とおっしゃってましたけども、では、この先、残りのキャリアをジャンル映画の作り手としてまっとうしようみたいな、そういう想いがあるわけではないということですね。
黒沢「特になにも決めてません。これまでもそれが僕の一貫したスタンスで、『次にどんな作品を撮りたいか?』と訊かれても『わかりません』と言い続けてきました。まあ、そう言いながら、今後もジャンル映画的な作品を作っていくかもしれませんが」
――1人の映画監督のキャリアとして、それはそれですごく美しいなという。
黒沢「美しい。まあ、そうかもしれないですね」
――例えばジョン・カーペンターは、ハリウッドのビッグバジェット作品を手掛けていた時期もありましたけど、一回りして、ジャンル映画的作風に戻っていったじゃないですか。
黒沢「そうですね、はい。『やっぱりジョン・カーペンターだよな』っていうのはいつもあるんですけど(笑)。ただ、あそこまでジャンルものをまっとうできるほど、映画に忠誠を誓ってはいないかもしれないですね。あるいは、デヴィッド・クローネンバーグのような人もいますが――いや、そういう人たちと自分を比較して話すのは、やっぱりおこがましいですね」
――いや、全っ然おこがましくないですよ(笑)。近年、黒沢監督がインタビューなどでクローネンバーグに言及される機会が多くなっていることも気になってました。
黒沢「クローネンバーグ本人がなに考えてるかわかりませんし、全然もう雲の上の人ではあるのですが、彼はジャンルものとうまく付き合いながら、時にそこからはみ出たり、また戻ったりっていうのを、かなり巧みにやってきて、映画作家として一つの個性を生み出してきた代表的な監督だと思うんですね。カーペンターはあまりにも独特で、なかなか見習うのは難しいんですけど、クローネンバーグのようにうまいことつかず離れずジャンルものと付き合っていけたらいいなとは思いますね」
――作品がだんだん大きくなり、それに伴って一作一作が持つ意味が重くなっていき、結果的に作品の間隔がどんどん長くなっていく、あるいは撮れなくなっていく映画監督も少なくない一方で、クローネンバーグがまさにそうですが、巨匠化であったりとか、権威化みたいなものから周到に逃れることができる映画監督もいる。黒沢監督も、気が付けば、そうした映画界の罠みたいなものをうまくくぐり抜けられたのかな?みたいな。今年の3作品を観て、そんなことを考えたりもしたんですよね。
黒沢「まあ、自分のキャリアを自分でコントロールするってわけにいかないので、こうありたいという思いはありつつ、しかし目の前に『これをやりませんか』って依頼されると、一応映画監督も仕事ですから、無下に断るわけにはいかない。もちろん、『これはさすがにできないな』というものをお断りすることはありますけど、『まさかこんな依頼が来ると思わなかった』っていうものに対しては、『ちょっとおもしろいかもしれない』と思えるものがあるわけです。実際、やってみたら結構おもしろかったという経験もしてきましたし、それこそVシネマだってきっかけはまさにそういうものでしたから。だから、その繰り返しですよね。あんまり自分のキャリアが人からどう見えてるのかなどと、考えてもしょうがないかなと思っています」
――もちろんクリント・イーストウッドやスティーヴン・スピルバーグのように、70代や80代になっても黒沢監督がガンガン撮り続けている可能性は十分あるでしょうし、心からそうであってほしいと願っていますが、そろそろ「映画監督としてのキャリアの終盤」というのを考え始めるお歳なのかなとも思ったり…。
黒沢「それも、あまり考えようがないんですよね。というのも、海の向こうにはカーペンターだのクローネンバーグだの、もっと遡ればリチャード・フライシャーとかもいるわけですが、幸か不幸かというか、身近な存在として、つまりわかりやすく日本映画のご先輩みたいなところには、参考にできるキャリアを歩んでる方ってあまりいないんですよね」
――確かに、いないですね。
黒沢「はい。日本という環境、あるいは現代という時代に限るなら、自分がモデルとできるような方が本当にいないんです。だから、本当にどうしたらいいかわからない(笑)。『そんな歳になってもうそんなことをするのは変じゃないですか?』って誰かに言われたとしても、なにを基準に変なのか、ということなんです。仕方ないので、探り探り、行き当たりばったりやっていくしかないっていうことですかね」
――黒沢監督に初めてインタビューをさせていただいたのは確か『回路』(01)のタイミングで、その後もカンヌ国際映画祭で取材をさせていただいたりと、あのころはこのまま国際的な映画監督として巨匠化していくんじゃないかと想像していたんですよ。もちろん、実際に現在も国際的にとても高く評価されているわけですが、そうであると同時に、まるで若手監督のようなペースで予測不可能な作品を作り続けていて。
黒沢「本当にねらってこうしてるわけではなく、基本的には来るもの拒まずという姿勢で仕事を続けているだけで。そうすると、現代の日本ではこうなるという見本ですね(笑)」
「成長といっても、それそれが美しいものとは限らないわけです」(黒沢)
――でも、もしかしたらそれは、黒沢監督がこれまで描いてきて作品の主人公にも重なるかもしれませんね。一般的な映画の物語では、ファーストシーンからラストシーンまでの主人公の成長を描くというのが一つの典型じゃないですか。
黒沢「はい」
――菅田将暉演じる『Cloud クラウド』の吉井も、物語の終盤、あんなに大変な思いをしたばかりなのに、安く仕入れたフィギュアが売れたことを喜んでいたりして、表面的にはまったく成長しているように見えない。そこにはどこか、映画が人間的な成長を描くことへの強い抵抗みたいなものも感じるのですが。
黒沢「おっしゃるシーンではそうなんですけど、今回はさらにその後に展開があるわけですよね。だから、あれを成長と言っていいかどうかはわかんないですけど…」
――ああ、なるほど。確かに、そこはこれまでの作品にはあまりなかったところかもしれません。
黒沢「そう。それまでは無自覚に悪に手を染めていた主人公が、最後の最後には、悪の道へと自覚的に入っていく」
――あの「ここが地獄の入口か」という台詞は、そういう意味では文字通り受け取っていいものなんですね。
黒沢「はい。一番最後に、彼は自分が手を染めている悪にようやく気づいた。それでも、そのまま突き進んでいくことにした、っていうふうに。なかなか重たいっちゃ重たいラストにはしてあるつもりなんですけど」
――なるほど。自分はその前の段階の、人間なんて大して成長もしないし変化もしないんだよ、みたいなこところに黒沢監督の哲学のようなものを勝手に受け取っちゃって(笑)。
黒沢「成長といっても、それが美しいものとは限らないわけです。のっぴきならない事件を経た人間は、変化してないように見えても、実際は変化するような気はしますね。それを成長と呼ぶかどうかはわからないですけど。『Cloud クラウド』は終盤になって突然いろんなことが起こるわけですが、そこを菅田さんはとても巧妙に演じてくれたと思います。僕は、秋子が再び現れた時の、あの無防備な笑顔が大好きなんですけど」
――ああいう表情、菅田将暉さんはすごいですよね。
黒沢「あそこもやっぱり全然成長してないですよ。いや、また裏切るに決まってるだろうって」
――いかに他人の感情に関心がないかという。
黒沢「でも、その全然成長してないかのように見えた吉井が『ここが地獄の入口か』と呟く。その一連の流れを、菅田さんは本当に見事に演じていて」
――”転売ヤー”という主人公の職業の設定については、ほかの取材でもお話になっていると思うのですが、これまで映画の中ではほとんど見たことがないあの職業のチョイスと、それを演じる菅田将暉さんが、本作に黒沢監督のほかの作品にはない不思議なリアリズムをもたらしている。特に前半部分では。
黒沢「おっしゃるようなことを一応ねらいはしました。つまり、ごく普通の現在の日本に生きている、暴力沙汰とかはまるで無縁であるかのような人々が、いろんなきっかけで、殺し合いを演じることになるっていうのがこの作品の当初のねらいだったんです。それは主人公だけでなく、ほかの登場人物もそうなんですが。最終的にアクションを描くには、ヤクザだとか刑事だとか自衛隊上がりだとか、そういういろんな特殊な設定にしておくといろいろやりやすいんですけど、今回は絶対にそうしたくないと。いまの日本で、順風満帆に生きているわけではないけれど、どこにでもいそうな人たちが出てくる映画を作りたかった」
――主人公の吉井は、ある種の自己責任論者でもありますよね。
黒沢「そうですね。だから、いつの間にか周りが危機的な状況になってくるわけですが、それもなんとか自分だけの力でくぐり抜けて、生き延びようとする。そういういまの日本に生きている普通の人間が抱えている矛盾だとか、揺らぎだとかを、菅田将暉さんは絶妙に演じてくれました。いい人とも悪い人ともつかないし、人ともある程度までは付き合うけれど、ある一定のラインは超えない。そういう特徴のない、特徴がないということが特徴の主人公。そういう主人公が暴力沙汰に巻き込まれてしまうところを描きたかったんです」
――ただ平凡だったり、ただ受動的だったりするだけでなく、あの主人公には困難を打開しようとする意志やある種の有能さもあって。それが黒沢監督の作品の主人公としては新鮮でした。
黒沢「強く意識したわけじゃないですけど、確かに、自分の力で、自分一人だけで立ち向かっていこうとする、ああいう人ってあまりこれまで僕の映画に出てこなかったかもしれません。対比としては、組織に所属している人間がいますよね。ポジションはいろいろありますが、会社組織や警察組織、ヤクザ組織の中の人、あるいは大学生でもいいですけど、そういう”組織に所属している普通の人”というのは、これまでわりと出してきた記憶があるんですけど。吉井のように、まったく単独で生きていこうとしている普通の人って、これまであんまり出さなかったかもしれないですよね。そういえば、主人公がオートバイに乗って走っている、ああいう映像、僕はこれまで撮ったことがなかったんですよ」
――ああ、言われてみれば。
黒沢「たった一人、風に向かって、不安定なんでちょっと転んじゃったりもするんですけど、前へと進んでいく。そういう意味では、オートバイって象徴的ですよね。一人で運転しているにしても、車を運転しているのとは全然違う。車の場合、家庭とか組織とか、もうちょっと安定したなにかを持っている人間が、一時的に孤独になって、車内の囲まれた空間の中で前進している。オートバイというのは、それとも違うわけです」