世界を震撼させた“Jホラー”の新たな形。不穏な怪作『バーミー』が日本を呑み込む
わずか70万円で作られたインディペンデント作品でありながら、トリノ国際映画祭のコンペティション入りを果たすという鳴り物入りで日本公開を迎えた『バーミー』。昨年秋にこの作品の情報を得たときから、なにかとんでもない作品が来るという予感はしていたが、想像の範疇を上回る怪作ではないだろうか。
ほとんどすべてのシーンに何かしらの形で映り込む“赤”の存在。「“赤”は止まれ」だと、誰もが見慣れている信号機の掟に従えば、それは警告の象徴である。かつてM.ナイト・シャマランが世界を驚かせた『シックス・センス』(99)でも、画面に“赤”が現れることが、ハーレイ・ジョエル・オスメント演じる少年コールがゴーストの姿を見る予兆として使われていた。
同じ方法論を取りながらも、本作ではその頻度があまりにも多く、異質な雰囲気を作り出している。それは“赤”と対をなすほどに際立たせられた“黒”の存在によるものだ。闇の中や物陰からゴーストが見ているという視点を、人物側からもゴースト側からも描き出す。ホラー映画というジャンルにおいては、いたってシンプルな見せ方といえるだろう。
ところが、人物の顔さえも潰していく影と、じんわりと姿を見せるゴーストの不穏な造形によって、本作は一般的なホラー映画とは一線を画していく。その姿はまるで、黒沢清の傑作テレビ短編「花子さん」に登場したあの異形のように、立ち居振る舞いだけで恐怖を体現する存在であった。
あらゆるゴーストが劇中に登場するが、その多くが影の形に止まり、実体を現したところでショッキングな描写もゴア描写も持たず、その雰囲気だけで恐怖を見せつけていくのである。そういった点ではJホラーの系譜を素直に踏襲しているわけだ。
それにしても、本作の巧妙さはとにかくその画面作りに現れている。カラー映画でありながら彩度を極限まで落とし、ハイコントラストな画面に“赤”を混ぜ込む。もっぱら他の色の存在がこの映画の印象に根付くことはない。
そしてオープニングとクライマックスに訪れる、非常に長いエレベーターのシークエンスを始め、傘、フォークリフト、缶コーヒーの液体といったものが落下していくプロセスを、よりによって上下の幅の狭いシネマスコープの画面で繰り広げることで、不可思議な息苦しさを生み出していく。
黒沢清的でもありながら、ときにゴーストという現象と向き合う男女のスピリチュアルな冒険奇譚にも思わせるプロットからは、南アジアのホラー、たとえばオキサイド・パン、ダニー・パン兄弟が監督した『the EYE アイ』(01)に近い空気を感じさせる。
田中隼という若手監督の脳内迷宮に呑み込まれ、最後15分で吐き出される不可思議な体験。いずれにしてもこの俊英がJホラーの新たな担い手となるのかどうか、そしてまったく異なるジャンルでも才を見せつけてくれるのか、次の作品を期待したいところだ。
文/久保田和馬