『さよならの朝に約束の花を飾ろう』で監督デビュー、岡田麿里作品を輝かせる“時間のジレンマ”
少女の姿のまま年を取らない主人公マキアと、彼女に育てられて成長していく少年エリアルの年代記。この映画を観て涙を流さずにいることなどできるだろうか。きっとどのような境遇にある人でも、自身の中に眠っている思い出が走馬灯のように駆け巡り、終盤にはスクリーンをまっすぐ見つめることさえ困難になるはずだ。
深夜アニメというジャンルに市民権を与えることになった「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」でシリーズ構成と脚本を務めた岡田麿里。これまで数多くのアニメ作品の脚本を手がけてきた彼女は、2017年に実写映画の脚本に挑み、そして2018年ついに自ら監督という立場で作品に命を吹き込んだ。それが『さよならの朝に約束の花をかざろう』(公開中)だ。
外見の成長が止まり数百年生き続けることから“別れの一族”と称されるイオルフの民が暮らす集落に、あるときナザーテという国の軍隊が攻め込んでくる。その混乱の中を逃げおおせ、森の中で1人の赤ん坊とめぐり会ったマキアは、家族を失ってひとりぼっちになったその赤ん坊と自分の境遇を重ね合わせ、母親に代わって育てていくことを決意をする。
エリアルと名付けられた赤ん坊は、マキアと共に身を寄せた農場で幼い兄弟とともに成長し、動物の死を通して命の限界を知る。その後マキアと2人きりで暮らしはじめた彼は「強くなって母さんを守るんだ」と意気込むのだが、青年期になるにつれマキアと距離を置くようになり、やがて「あの人」と冷たく形容する。それでも心の中では変わらず母であるマキアを想いつづける彼の姿には、思春期に誰もが通過するであろう複雑な心理状態がしっかりと描き出されている。
前述した“あの花”は小学生時代に親友だった主人公たちの前に、この世を去った少女・めんまが現れることから始まる一夏の物語だった。高校生たちの青春群像と、小学生のまま時間が止まった少女の対比を描くことで、ノスタルジックでありながら、抗うことのできない時間の残酷さを物語ったのである。それは本作にも通じているテーマではないだろうか。
時間の流れは本来つねに一定に進んでいくものだ。その流れがまったく異なるもの同士が重なり合い、一種のジレンマが生まれることで、些細な出来事さえもドラマチックに見えていく。岡田作品がひときわ輝きを放つのは、この“時間のジレンマ”に押しつぶされる登場人物を描いたときだ。
同じく岡田が2013年に手がけたテレビアニメに「凪のあすから」という作品がある。水の中で暮らす4人の少年少女と地上で暮らす少年が出会う同作では、主要なキャラクター数名が海の底に沈んでいく出来事を境に5年の月日が経過する。そして再び姿を表した彼らは5年前の姿のまま。一緒に成長してきた者たちの時間が食い違うことで、その中の少年の1人に想いを寄せていた少女を軸にした“時間のジレンマ”的ドラマがより一層深まっていった。
岡田にとってそれらはファンタジーの世界に留まったテーマというわけではない。現実的な物語の中にも紛れもなく“時間のジレンマ”は存在していて、昨年公開された生田斗真と広瀬すず主演の『先生!、、、好きになってもいいですか?』はまさに同じテーマ性があって、高校生のヒロインが年上の教師に恋をするという物語に待ち受けているのは、卒業までの時間を描くジレンマだ。
高校時代の3年間と大人になった者の3年間の長さは、同じであって決して同じではない。肉体的にも心理的にも成長のスピードがまったく異なる両者は、出会いのタイミングから微妙なズレを持った状態で進んでいく。それゆえに徐々にそのスピードが揃い、ズレが埋められていく過程に、物語と感動が発生するのだろう。
とはいえ今回の『さよならの朝に約束の花をかざろう』では、成長に費やす時間と生きていく時間が明確に異なる者同士でありながら、心理的な成長スピードだけはずっと足並みを揃えているように感じられる。だからこそ“別れの一族”であるマキアがたどり着くラストシーンは、あらゆる“時間”の概念を捨て去り、普遍的な感動が生まれる唯一無二の瞬間だったのではないだろうか。
文/久保田和馬