【レビュー】台湾の俊英が“青春”の原点へ立ち返る王道ミステリー『夏、19歳の肖像』
バイク事故で骨折した大学生の青年が、入院した病院の窓から見える邸宅に暮らす女性に一目惚れをする。そのシチュエーションだけで、アルフレッド・ヒッチコック監督の名作『裏窓』(54)をはじめとした“窃視ミステリー”の様相を呈する、台湾の俊英チャン・ロンジーの最新作『夏、19歳の肖像』。さらに友人から借りた望遠鏡で毎夜のように女性の家を覗いていた青年が、女性が父親を殺し家の隣の工事現場に埋めている姿を目撃してしまうとなれば、もはや『裏窓』ファンにとってはご褒美のような展開といえよう。
ところが本作は、『裏窓』のように主人公が行動を制限された中で事件を解明しようとするお決まりの展開を選ぶことはしない。物語前半で青年・カンの怪我が治り退院。たちまち“窃視ミステリー”から、いかにしてその女性・シアに近付き、関係を深めていくかというロマンティックな青春譚へと様変わりする。しかしそんな中でも、カンが誰かに監視されているというミステリー要素は尽きることはない。
何よりも興味深い部分は、カンは目撃したシアの父親殺しの真相を確かめたいという欲求を持ちながらも、事件の解決であったりシアを断罪することを求めないことだ。あくまでも彼は、シアを守るということを目標にし、彼女が犯した罪を受け止めながら、それを共有したいと欲する。犯罪を許容して同調するその姿は、ある意味で19歳というモラトリアム下に置かれた年齢特有の不安定さを象徴していると同時に、あらゆる罪と罰をも寄せ付けない盲目的な「恋心」が強く表出されているのであろう。
本作の原作は「占星術殺人事件」や「御手洗潔」シリーズで知られる推理作家・島田荘司が85年に発表した小説。それを現代の台湾を舞台に再構築しただけに、もちろん携帯電話をはじめ「クラウドに音楽をあげておいたから」というやりとりなど、現代的な脚色が丁寧に施されている。30年前の作品の有する普遍的なマインドは、時代と海を隔てても変わることがないということがまざまざと証明されたといえよう。
チャン・ロンジー監督といえば、ウェイ・ダージョン監督の『海角七号 君想う、国境の南』(08)によって新たな時代を迎えた台湾映画界を代表する、青春映画の才能だ。視覚障害を持つピアニストの青年とダンサー志望の少女の青春模様を描き、アメリカのアカデミー賞外国語映画賞台湾代表にも選ばれた『光にふれる』(12)で長編デビューを果たすと、つづく『共犯』(14)をきっかけに日本でもその名が知られるようになる。
その『共犯』は、王道の青春サスペンスの雰囲気を醸し出しながらも、実に現代的で不安定な少年心理をそのまま映画に投影させたかのような異色作であった。90分にも満たない上映時間の中で、前半に物語を進めていた少年が突然溺死し、主人公格が他の人物へと遷移する。その中で、1人の少女の孤独に共鳴していく少年たちの友情が重ねられていく。その点は、まさに本作と強いリンクを持った部分ではないだろうか。
何よりも『共犯』でヤオ・アイニンが演じた、物語の鍵を握る少女の名前は「夏薇喬」なのに対し、本作でヤン・ツァイユーが演じるヒロインの名前は「夏穎穎」。両作のヒロインが同じ姓を持ち、しかも孤独を抱えているという共通点に、チャン・ロンジーがヒロインに対して向ける、ある種のフェティシズムを感じずにはいられない。
もっとも、極めて内向的な登場人物たちが否応なしに関わり合いを持つようになっていく『共犯』と比較すると、本作の登場人物たちは外部との関わり合いを強く求めながらも、その歯車が上手く噛み合っていかない点で対照的な作品にも思える。「見る」ことと「知り合う」こと、「一方的な恋心」に「嫉妬」など、青春特有のシンプルで不安定な動作と感情を重ね合わせ、極めて繊細につむがれた本作は、チャン・ロンジー監督という青春作家の原点回帰なのかもしれない。
文/久保田 和馬