「脚本通りに撮るだけでは、生きた『ジョーカー』はできなかった」ホアキン・フェニックス ロングインタビュー【前編】
細かい表情の変化や動きからジョーカーという“悪”を全身全霊で体現したホアキン。しかし彼は、撮影中に「非常にがっかりした」ことがあったと明かす。それは映画制作の都合上、どうしても生じる撮影の順番という点だ。脚本に書かれている物語の流れに沿って、順を追って撮影される“順撮り”という方法ではなかったことで、ホアキンはアーサーを演じている途中でジョーカーに変貌しなくてはならなくなったという。「初めはそれが嫌でしょうがなかった。ジョーカーのシーンは最後まで待ちたかったから、トッドにも言ったんだ」。ホアキンはそう振り返る。
「脚本に従って撮影するだけじゃ、生きた作品はできない」
「撮影が始まって7週目に入り、初めてジョーカーを演じた時に突然ピンとくるものを感じた。いままで僕が演じてきたアーサーは間違いだったってね。ジョーカーを演じたことでこのキャラクターへの考えが変わってしまったから、いままでのように進むことはできない。だからアーサーへのアプローチを変えることになったんだ。ジョーカーを演じるまで気付かなかったというのを考えると、映画づくりがどんなことなのか、どれほどの要素が関わっていろいろな変化をするのかが見えてくるよ。それまでジョーカーになってからのシーンを最後まで待たずにやれと言われてトッドに怒りをぶちまけていたからね。そんなことはできないと騒ぎ立てていたけれど、トッドの答えは常に『やるしかないんだ』というものだった。いまは非常に感謝しているよ。あの時先にジョーカーを演じることがなければ、アーサーへの理解は中途半端なもので終わっていたからね」
――ということは、すでに撮影を終えたシーンで撮り直しをした箇所もあったということですか?
「実は少しあったよ。僕にとってはこの方法でしか映画は作れない。例えばレコードを作る時、歌の部分をレコーディングしなおすとか、音を調整するとかは当たり前のことだろ?絵画だったら画家は常に色や形の調整をしながら絵を仕上げていく。クリエイトするということには流動性がなければならないんだ。クリエイションは常に呼吸をしている。脚本に従って撮影をするだけじゃ、生きた作品はできないんだ。
これはポール・トーマス・アンダーソンと仕事をして学んだことだが、再撮影はとても大事なことだ。僕はそれまで嫌っていた、というよりか恐れていたと言った方がいいかもしれない。撮り直すということは失敗してしまったといこととイコールで、恥なんだとさえ思っていた。でも『ザ・マスター』のとき、ポールと僕は撮影5週目ごろにキャラクターの軸となる部分を調整せざるを得なくなった。その作業をしているときに、再撮影への考え方が変わったんだ。クリエイトする側にとって、それはさらなる追及への素晴らしいチャンスが与えられる。いまとなってはこの方法しかないとさえ思っているんだ」
――アーサーというキャラクターの言動はなにが真実で、なにがイマジネーションなのかはっきりしていません。あなたにとって、アーサーの真実とは?
「僕が確信しているアーサーの真実は、子どもの頃に酷い目に遭ってかなり深いトラウマを抱えていると言うことだ。それが僕にとってアーサーを創り上げるうえでのスタートだったからね。襲われたときに凍りついて自己防衛もなにもできないフリーズモードに入る彼の行動から、僕は彼にかなりのトラウマがあったと信じるに至ったんだ。このストーリーのほかの部分でも、彼の言っていることの多くが冗談を複雑にしただけという感じだし、彼にとってのユーモアからもそう思えた。彼が最後に笑いながら言うセリフに『ジョークを考えてるんだけど、どうせ君たちはなにも理解できないだろうけどね』という独りよがりな部分がある。彼の言動をどこまで信じていいのか僕にもわからなかったし、なにが現実なのかもわからない。でも彼の不確実な状況下での反応から見て、彼は子どもの頃のトラウマを抱えている人間なのだと確信したんだ」
ホアキンの言葉からは、アーサーとジョーカーという与えられた2つの役柄に真摯に向き合ったことが窺える。これまでもジョーカーという極めてアイコニックな悪役に挑んだ俳優は多数いる。そのなかで、ホアキンはどのようにして唯一無二のジョーカーを作りだしていったのか。6日(日)掲載の後編では、ホアキンがジョーカーに挑むにあたっての心構えや、過去にジョーカーを演じた俳優についての想いを語る。
構成・文/久保田 和馬