【追悼】新藤兼人監督、映画に捧げた人生「映画のために死ね」
新藤兼人監督が老衰のため、5月29日に100歳で逝去。日本映画界が誇る最高齢の映画人が天寿を全うした。98歳で撮った『一枚のハガキ』(11)が第23回東京国際映画祭で審査員特別賞を受賞し、授賞式で引退宣言をした。ところが、今年2012年2月のブルーリボン賞授賞式では、芦田愛菜の「是非、監督の作品に出演したい」というラブコールに対し、「そうですね」と、その宣言を撤回。まだまだ映画への情熱を燃やし続けていたが、同作が遺作となり、遂に愛妻で女優の乙羽信子の下へと旅立った。
「映画のために死ね」。これは、西島秀俊が、筋金入りのシネフィル(映画狂)の青年役を演じた壮絶な映画『CUT』(11)のキャッチコピーだ。一見、過激なこのフレーズは、新藤兼人監督が生前のインタビューで語った言葉だったと、同作の宣伝マンが明かしてくれた。これは新藤監督が若い世代へ向けた言葉で、映画の趣旨にぴったりだったから採用したのだという。まさに、新藤監督は映画に人生を捧げてきた人だ。名匠・溝口健二監督に師事してキャリアをスタートさせ、映画の黄金期から、脚本家としても映画監督としても数多くの良質な映画を手がけてきたが、その道程は決して平坦で緩やかなものではなかった。
監督デビュー作は、乙羽信子の出演作『愛妻物語』(51)。以降、乙羽は新藤監督にとって、公私ともども、かけがえのないパートナーとなる。乙羽の遺作となった『午後の遺言状』(95)も新藤監督の作品だ。独立プロダクションの先駈けである近代映画協会を立ち上げてからも、二人三脚で苦労を共にしてきた。製作資金が潤沢な商業映画ではなく、作家性の高い作品を作り続け、資金繰りには非常に苦労することが多かったという。新藤監督自身も、 『一枚のハガキ』の舞台挨拶で「独立プロをやってこられたのも、本当に皆さんのおかげです」と感謝の言葉を口にしながらも、「いつもつまずいていまして、つまずく度に額をぶつけ続けました。しかし、泣きたくても泣いてはいけない。前を向いて歩いて参りました」と激白していた。
この時に登壇した大竹しのぶも、ふたりについてこんなエピソードを語っていた。「『生きたい』(98)で出演させていただいた時、乙羽さんの夢を見たんです。お身体の調子が良くない乙羽さんがセットで横になっていたのに、(映画の)スポンサーの方がセットに見学に来たら、乙羽さんが立ち上がってお礼を言っている光景でした。このようにして乙羽さんは、監督と支え合って、映画を撮ってきたんだな、と夢に教えられました」。
同作の宣伝マンは「新藤監督は、映画人である前に、一人の人間として素晴らしい方だった」と、深く感銘を受けたという。「宣伝も全力で取り組んでくださり、取材時は99歳でしたが、長い時では1時間半くらいずっと語り尽くされたこともあります。愚痴なんて一切仰らなかったです」。さらに「監督業は引退しても脚本は書いていきたい、最後の最後まで映画のことを考えていたいと、力強く仰っていました」。なるほど、今頃は天国で、乙羽と共に新作の構想でも練っているのではないだろうか。
映画人として格好良すぎる生き様を見せてくれた新藤兼人監督。心よりご冥福をお祈りしたい。そして、最後は新藤監督が舞台挨拶で残したこのメッセージで締めくくっておく。「新藤は、このような映画を作ってきたんだと時々思い出してください。それを思い出していただければ、私は死んでも死なない。いつまでも生きて、思い出していただける。それを望みに死にたいと思います」。【取材・文/山崎伸子】