【追悼】反骨の才人・若松孝二監督「映画はずっと生き続けることができる」

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【追悼】反骨の才人・若松孝二監督「映画はずっと生き続けることができる」

名古屋にはオーナーが映画監督という映画館がある。名前はシネマスコーレ。ラテン語で「映画の学校」。命名したのは創設者でもある若松孝二監督。70半ばを過ぎても精力的に映画を撮り続けていた若松監督は10月17日、76歳でこの世を去った。死因は交通事故による多発外傷だった。

若松監督は宮城県出身。1963年に『甘い罠』でデビュー。過激な性描写の中に時代を映しこむという作風で、一躍ピンク映画界の寵児となった。第15回ベルリン国際映画祭に出品され、物議を醸した『壁の中の秘事』(65)や『赤軍 PFLP 世界戦争宣言』(71)を経て、内田裕也主演の『水のないプール』(82)で一般映画にも進出。近年は、少年の心の闇に迫った『17歳の風景 少年は何を見たのか』(05)や国内外で高い評価を得た『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』(08)など、社会派の作品を手がけてきた。

強面で豪快だが、温かくて優しい監督に取材で会うのが楽しみだった。自身の家やスコーレを担保に『実録・連合赤軍あさま山荘への道程』を作ったという言葉に目を丸くしていたら、「ぶっ壊したのは自分の別荘だよ」と笑い、「支配人には内緒」とビールを口にし、饒舌に語る一面もあった。一度、若松監督の作品に参加すると、次も参加したくなるという。『キャタピラー』で第60回ベルリン国際映画祭の銀熊賞(女優賞)を受賞した寺島しのぶや、『11.25自決の日三島由紀夫と若者たち』(公開中)で三島由紀夫を演じた井浦新もその一人だ。スケジュール管理から、メイク、衣装に至るまで、全て自分でやる現場。「純粋に作品を作りたい人たちが集まってくる。だから、ものすごく自由で楽しい」と井浦は話す。

プロダクションを設立し、自社で製作から配給・宣伝まで手がけていた若松監督。後進の育成も積極的に取り組み、脚本家の荒井晴彦や高橋伴明監督、浜野佐知監督ら、多くの逸材を輩出する一方で、「作っても見せる場がない」と映画館「シネマスコーレ」を1983年に設立。メジャー配給会社が扱わない小規模な作品や自主映画を積極的に上映した。1992年からは「映画を見る目を養ってほしい」と、深作欣二監督や滝田洋二郎監督、阪本順治監督など知人の監督をゲストに迎えた映画合宿を実施。この合宿からも多くの映画人が生まれた。シネマスコーレ設立時から支配人を務める木俣純治さんは、「次は、原発の映画を撮ると言っていた。監督の頭の中には既に構想もできあがっていただけに残念でならない」とその思いを口にする。

そんな監督の最後の作品となったのは『千年の愉楽』。寺島しのぶ、高良健吾、高岡蒼甫、染谷将太、井浦新ら実力派俳優が競演する本作の撮影は2011年11月、9日間にわたり三重県尾鷲市須賀利町で行われた。撮影を手伝った東紀州プレス&フィルムコミッションの田上さんによると、「ここは素晴らしい!世界中の人にこんな場所があるということを見せたい」と、きらきら光る海を眺めながら言ったそうだ。また、クランクアップ時には牡蠣の養殖場に立ち寄り「みんなには内緒」と生牡蠣を美味しそうに食べていたことも記したい。

若松監督は生前、「映画は内容。30年前に撮ろうが、50年前に撮ろうが、素晴らしい作品は今でも面白い。映画館があれば、映画はずっと生き続けていられる」と口にしていた。その志は、若松監督から若い俳優やスタッフたちに受け継がれていく。最後は、シネマスコーレの若いスタッフが言った言葉で締めくくろうと思う。「映画が存在し続ける限り、映画が絶滅するまで、僕らは映画館を守り続けたい」。シネマスコーレでは年内に追悼上映を行う予定だ。【取材・文/大西愛】

故・若松孝二さん(本名:伊藤孝)の通夜は10月23日(火)18:00~19:00、告別式は10月24日(水)10:30~12:00、いずれも青山葬儀場にて執り行われます(宗教形式は仏式)。喪主は奥様の伊藤慶子さん。

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