広末涼子が失意の母親役「芝居で我を失ったのは初めて」
最愛の娘を失った母親が、喪失感を乗り越えていく再生のドラマ『桜、ふたたびの加奈子』(4月6日公開)。主演を務めた広末涼子は、持ち前のまぶしい笑顔を封印し、悲しみの深淵でもがく母親役を繊細に演じ切った。広末は、本作を経てどんな心境に至ったのか?撮影舞台裏の話を聞いた。
新津きよみの原作を、『飯と乙女』(10)の栗村実が映画化した本作。娘の加奈子を事故で亡くした母親・容子(広末涼子)は、もうすぐ産まれてくる他人の子供を、自分の娘の生まれ変わりだと信じ切っている。その妻を、夫の信樹(稲垣吾郎)が必死で支えていく。広末は脚本を読んだ時、「輪廻転生、永劫回帰みたいに、宗教的なこととか、実体験で何かがあったということはないのですが、物語にすんなり入っていけました」という。
「現実でも、映画やドラマよりもドラマティックなことってたくさんあると思うんです。それが人の命に関わることなら、よりいっそう感じるものがある。それを奇跡と呼ぶのか、思い出を何か現実的なものとリンクさせるのか、それぞれだとは思います。ファンタジー的な要素が強いとは感じましたが、それを現実的にとらえたうえで、物語としてメッセージできることがこの映画の醍醐味というか、素晴らしさだと思いました。死に向き合わないといけないので、演じるうえでも苦しくて、辛いと思うけど、演じさせてもらう責任感のようなものを感じながら、命の連鎖という、次への希望を届けてくれるのではないかなとも思ったんです」。
やはり、演じるうえでの葛藤も大きかったようだ。「悲しい、寂しい、苦しいということが一番大変でした。でも、実際にその立場になったことを考えたら、そんなことは当たり前で、それを体現することが、今回の私の任務というか、役割だと思っていました。その苦しい部分の表現がないと、最後のシーンや、最初の部分の受け取られ方が変わってくる。そこは避けられないと、入る前から思っていましたが、実際に入ってからも、そこが一番辛いところでした。スイッチのオンオフをしようと思っても、どんなに気分転換をしようと思っても、そこは難しかったです」。
もともと、役柄にはかなりのめり込む方なのか?と尋ねると、広末は「そんなに日常に引きずるようなタイプじゃないとは思っているのですが、今回は自分でいる時間よりも、役でいる時間が長いような日も続いたので、自分の経験や日常ともリンクしてしまうところがたくさんありました」とのこと。「でも、役を通じて自分が成長させられることは多いですし、今回も改めて、命の尊さはもちろん、生きていることのありがたさや、自分の大切な人たちが生きてくれていることへの感謝の気持ちを毎日感じることができたので、良い経験だったと思います」。
とことん役に入ったせいか、完成した映画を見た時、自分の表情に驚いたそうだ。「加奈子の生まれ変わりだとわかった子供とのお芝居で会話をする時、我を失ってしまうような感覚に陥ったんです。自分でも出来上がった映像を見た時、こんな顔で泣いている自分を見たことがないと思いました。現場では、どこか客観視しながらというか、たとえ感情的になっていても、自分を失わないように演技をしているつもりだったので。今回は初めての経験というか、どこか自分と一体化していた部分があったのかなというふうに感じました」。
容子の耐え難い母としての悲しみについて、広末はこんなふうに読み取った。「母親という立場では、どんなに最善を尽くして守り、120%頑張ったとしても、報われないことや救われないことがあるのではないかと。きっと、容子に関してもそうですよね。撮影に入る前に栗村監督から、3.11の出来事への想いの話がありました。『人は死に対面するけど、そこからの希望をここでやりたい』と。責任の重大さを感じましたし、是非やらせていただきたいと思いました」。
最後に広末は、本作への思いをこう話してくれた。「決して悲劇的な悲しみや苦しみだけを伝える物語じゃないというところに、この作品の持つ大きなメッセージの意味があると思います。また、母親としての成長記でもあり、実際にあるかもしれない小さな奇跡の物語だと思うので、見ていただいた方に何か心に残るものを持って帰っていただけたら嬉しいです」。【取材・文/山崎伸子】