庵野秀明が自身のキャリアを振り返る!【アマチュア編】高校時代~DAICONを語るトークショー濃密レポートPart1

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庵野秀明が自身のキャリアを振り返る!【アマチュア編】高校時代~DAICONを語るトークショー濃密レポートPart1

日本が世界に誇るクリエイター・庵野秀明。「エヴァンゲリオン」シリーズを筆頭に、アニメ、実写映画、プロデュースなど多方面で活躍を続けている。現在開催中の第27回東京国際映画祭では、そんな庵野のキャリアを総括する大型特集上映会「庵野秀明の世界」が開催中。短編、CM、PVを含めた50作品以上が上映されている。

作品の上映に合わせて、庵野が自身の創作活動について語るトークショーも実施。全5回、アニメ・特撮研究家の氷川竜介との対談形式で、各カテゴリー別にトークを繰り広げる。第1回は庵野の高校~大学時代にフォーカスする「アマチュア・庵野秀明」。今回は、10月24日にTOHOシネマズ日本橋にて行われたトークショーの模様を徹底リポートする。

【庵野秀明の原点は高校時代にあり】

庵野「もう、恥ずかしくて帰りたいんです(笑)。帰らないんだったら、せめてお酒が欲しい。こういう大画面で見るチャンスはないんで、一番後ろの席でこっそりと見ていたんですけど、どうしても恥ずかしくて…」

氷川「これほどの規模で半生を振り返る大上映会っていうのはアニメ、特撮界では例のないことだと思います。僕にとって庵野さんの作品は7割ぐらいリアルタイムだった。『じょうぶなタイヤ!』とか、ごく初期にVHSテープで拝見しました。『宇部高美術部作品集』など、今回は高校時代の作品もありますよね」

庵野「覚悟決めて出したんですけど、やっぱり恥ずかしいですね(笑)。僕の高校は山口県でも三本指に入る進学校だったんです。だから受験戦争とか、そういうのに対抗する社会派だったんですよ。(劇中に登場する)355という数字も高校の生徒の定数なんです。僕が生まれて初めて描いたアニメーションはこの中に登場するヤマト。松本零士さんのマンガが、僕の原点なんです。その後は、爆発のシーンをいっぱい描いてて。あの頃『タイムボカン』の爆発が大好きだった。『ガッチャマン』もそう。タツノコプロの爆発に影響を受けました。いま思えば、高校のときから何も変わってないですね(笑)。『宇部高美術部作品集』は文化祭で上映するために作品にしないといけなかった。だからタイトルを適当に付けて、最後に『おわり』を付ければいいやと…。変わってないですね(笑)。タイトルがあって『おわり』があれば、作品になるんだとこの時点で悟ってますよ(笑)。後にテレビのアニメで同じことをやるとは思いませんでした。好きなものも全然変わってない。メカ、爆発、女の子。当時、“オタク”という言葉はなかったですが、アニメが好きな人の感覚ですよね」

氷川「そういう意味では庵野さんは当時から先頭を走ってたんじゃないですか」

庵野「『ナカムライダー』も(今回の上映にあたって)東映さんとか、石森プロさんが本当に大きな心で許可してくれた。本来は無理だと思っていたんですけど、こういう大画面で見ると何も変わってないな、と(笑)」

【限られた機材、画材で可能性を模索】

氷川「『ナカムライダー』は高校の美術部で撮った実写ですか?」

庵野「フィルム代はおそらく部費で出したと思います。セルは自分の小遣いで買った記憶があります。フィルム代で部費がなくなったので、後は自腹でやるしかないと。あの頃、8ミリフィルムにそもそも音をつけることができないので、上映するには映写機を回すのと同時にカセットの再生ボタンを押さないといけない…。それが、まさか映画館で上映されるとは思わなかったですね」

氷川「カメラは(FUJICA)ZC1000を使っていたんですか?」

庵野「当時はZC1000なんて高価なカメラは使えなかったです。高校のときに買ったのは(CANON)514XL。コマ撮りができて、ある程度の機能を備えたカメラが514XLだったんですね。『ナカムライダー』も本当はスローモーションとか撮りたかったんですけど(笑)。ZC1000は大学に入ってからです。ガイナックスで社長をしている山賀(博之)の実家が金持ちだったんですよ。僕が大学の購買部で眺めてたら、山賀が『じゃあ俺がZC1000買うよ!』と(笑)。僕と赤井(孝美)は本当に助かったんですよ。あれが欲しくて欲しくて、たまらなかったんです」

氷川「『ナカムライダー』は自主制作の王道というか、全部が入っていますね」

庵野「あの頃、『小型映画』という雑誌があって…。山口県の田舎でも売ってる本だったんですが、“トリック撮影の撮り方”とか載っていて、こういう撮り方があるのかと。フィルムに針でカリカリ傷をつけると光線みたいな効果になるシネカリとか、いまの若い世代にはわからいでしょうね。すごいシステムなんですよ(笑)」

氷川「セルアニメとスチールアニメも入れながら…。ところで、あれはどういう設定なんですか?」

庵野「僕は悪者として出てるんですけど、スペシウム光線は自分でやりたかったんです(笑)。その辺も全然変わってないですよね。『帰ってきたウルトラマン』まで手法は変わってないですよ。最初からエフェクトにはこだわってましたからね。ビデオがないですから、脳内再生で体が覚えているというか、目で覚えている。コマ送りして『こうなってるんだ!』と確認できるようになったのはビデオが出てから。だから80年代のアニメが技術的に進歩したのはビデオのおかげなんです。でも、あの頃はビデオよりも8ミリフィルムが欲しかったので、僕の全財産は8ミリフィルムに費やしましたね」

氷川「当時、画材は何を使っていたんですか?」

庵野「紙は普通に100円で売っていた計算用紙です。上の部分が糊でついてるのでバラバラにならない。だからタップがいらないんです。全部同じ大きさに裁断されているので、基本的に同じシリーズの用紙を買えば、タップがいらなくなる。しかも薄いのでよく透けるんです。3〜5枚ぐらい下までライトテーブルなしで描ける。当時はミリペンを使って全部一発書きで描いていました。鉛筆で下書きをする余裕がなかったんです。1枚がもったいない。用紙の100円も貴重ですから(笑)。絵の具は当時ちょっと流行り始めていたセル絵の具の10色セット。部費で買いました。これも高いんですよ(笑)」

(Part2へ続く)

【取材・文/トライワークス】

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