立野一吉
力道山(少年時代)
「江戸一寸の虫」の共同脚色者の一人、菊島隆三が脚本を書き、「月がとっても青いから」の森永健次郎が監督、伊勢寅彦が協力した。撮影は同じく「月がとっても青いから」の山崎安一郎が担当した。主なる出演者はプロレスの力道山、「母なき子」の澤村國太郎、「月がとっても青いから」の南寿美子、坪内美詠子、「人生とんぼ返り(1955)」の河津清三郎など。
九州大村市に生まれた百田光浩少年は、小結大村潟の実父作造のすすめで大村潟に弟子入りしたが、取的としてコキ使われるばかりだった。五年後のある日、母が九州から上京して、力道山と名を改めたわが子にゆで卵を腹一杯食べさせた。その時、力道山は傍らの貧しげな男に食べ残しの卵を与えたが、それが後に彼の運命を大きく回転させるカギになろうとは夢にも思わなかった。母が土産にと持って来た手製の下駄を御守に、ひたすら練磨に励んだ彼は初めて番付の末尾に自分の名前が載った日、その下駄を出して拝むのだった。その後、厳しい角力の世界にあって、力道山は母が死んだ時も郷里へ帰らず、歯を食いしばって精進を続け、またたく間に十両になることが出来た。彼がかつて卵を恵んだ隅田新作に再会したのは、戦争半ばのことである。軍需工場を経営している隅田が力道山の男意気に惚れ込み、よき相談相手になったことはいうまでもない。やがて戦争も終り、角力も漸く復活したが、戦時中配給物資の不正で除名された大村親方は許されず、力道山は隅田の力をかりて大村部屋を再建し、大村潟を親方に迎えた。その頃、彼は西の関脇として横綱街道をまっしぐらに進んでいたのである。だが、大村親方の冷たい仕打ちに力道山は角界から身を退き、建築会社隅田組の資材部長として働くことになった。妻雪子と亡母の墓参に出かけた日、「駐留軍慰問外人プロレス試合」のポスターを見て、力道山の心は燃え立った。ハワイで修業を積んで帰朝以来、プロレス界の王者となり、シャープ兄弟、ニューマン、シュナーベルと闘い、カルネラ、オルテガを破った彼の前には、世界選手権保持者ルテーズ挑戦の快諾が待っていた。多数の人々の声援に送られ、勇躍彼は出発するのだった。
力道山(少年時代)
力道山(十五才-十八才)
力道山(十両以後)
母たつ
隅田新作
隅田夫人
大村潟
鬼龍山
春勇(青年)
春勇(中年)
落合川
八ツ岳
作造老人
太吉
雪子
住職
闇屋
巡査
煙草屋の亭主
力道山の兄
[c]キネマ旬報社