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「芸術か、ワイセツか?」物議を醸した『愛のコリーダ』&『戦メリ』で堪能する、大島渚という宇宙

コラム

「芸術か、ワイセツか?」物議を醸した『愛のコリーダ』&『戦メリ』で堪能する、大島渚という宇宙

「芸術か、ワイセツか?」をめぐって裁判に

さて、『愛のコリーダ』が描くのは昭和11年(1936年)の実在の物語。東京・中野の料亭に仲居として勤め始めた元遊女の阿部定が、店の主人、吉蔵と性愛関係に溺れた果てに殺害、男性器を切り取るに至った通称「阿部定事件」だ。ヒロインの阿部定役には、新人の松田英子(瑛子)が大抜擢。寺山修司の劇団「天井桟敷」に所属していたこともある(劇団員の時は「市川魔胡」名義)。相手役の吉蔵は、すでに映画やテレビドラマで人気を博していた藤竜也が演じた。

いわゆる「事件の映画化」だが、この映画自体が「事件化」もする。それが1982年まで続いた「愛のコリーダ裁判」。公式本の一部がわいせつ文書図画にあたるとして、監督の大島と出版社社長が検挙起訴され、「芸術か、ワイセツか?」をめぐって法的な場で争われたのだ。

『愛のコリーダ 修復版』が4月30日より上映中
『愛のコリーダ 修復版』が4月30日より上映中[c]大島渚プロダクション

「個」の快楽と自由意志に徹した男女の生の賛歌

こういった「問題作」の様相に反して、映画自体はカラッと明るい。前年の1975年に発表された同題材のロマンポルノ、『実録阿部定』(監督は田中登)の密室的な暗さに対し、こちらは開けっぴろげ。「性交というアクション」を主体に、「攻め」の阿部定と、無双の包容力で「受け」に回る吉蔵のセックスと愛をシンプルに描出する。


フランスの思想家で作家、ジョルジュ・バタイユの有名な定義「エロティシズムとは死を賭するまでの生の賛歌である」を具現化したような内容。阿部定が血文字で書いた「定吉二人キリ」へと至る、性愛のユートピアを結晶させた極めて純度の高い映画だ。

松田英子と藤竜也が愛欲に溺れる男女を熱演(『愛のコリーダ』)
松田英子と藤竜也が愛欲に溺れる男女を熱演(『愛のコリーダ』)[c]大島渚プロダクション

『愛のコリーダ』は2000年にも日本公開されて大ヒットを飛ばしたが、女性人気が高いことでもよく知られている。松田英子は長身で媚びたところがなく、耳たぶにはさそりのタトゥー。いまで言うと江口のりこのような存在感か。戦争の足音が近づくなか、「個」の快楽と自由意志に徹した定と吉蔵の姿は、いまの窮屈な世の中にも強烈なメッセージとして響くだろう。

セックスと愛を極限まで描く(『愛のコリーダ』)
セックスと愛を極限まで描く(『愛のコリーダ』)[c]大島渚プロダクション

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