驚きのデビュー作『猿楽町で会いましょう』を世に送りだした児山隆監督が語る、デジタル時代の「シーンの作り方」【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
映画というアートフォームの残酷さは、“撮れる”監督はいとも簡単に撮れてしまうし、“撮れない”監督は運良くフィルモグラフィーを更新し続けることができたとしても、いつまで経ってもまともな作品を撮れないことです。もちろん、「いとも簡単に」というのはあくまでも観客視点であって、そこにはこれまで観てきた作品の蓄積をはじめとする数々の一朝一夕では身につけることができない記憶や経験や技術も深く関係しているわけですが、“撮れる”監督はデビュー作からいきなり撮れてしまうというのは、映画における一つの真実と言ってもいいのではないでしょうか。
東京の渋谷駅と代官山駅のあいだ、猿楽町のアパートで暮らす駆け出しのフォトグラファーと駆け出しのモデルの恋愛関係を軸に、その周囲の人間模様をリアルに描いた『猿楽町で会いましょう』(公開中)で、児山隆監督は驚くほど見事に「長編映画デビュー作」をものにしています。金子大地、石川瑠華、栁俊太郎、小西桜子といった注目されている若手俳優たちから「自然な演技」以上の生々しい所作や表情を引き出し、時制を巧みに操ったストーリーテリングを駆使し、撮影や編集や音響といった技術面も極めてプロフェッショナル。思わず、「インディーズ映画らしからぬ」という少々乱暴なフレーズを口にしたくなる誘惑にかられてしまいます。
そもそも、撮影や編集のデジタル化とは、少なくとも映画のルックにおいてメジャー作品とインディーズ作品の格差を解消するものであったはず(日本の場合、メジャー作品の平均的な技術水準が心許ないという問題もありますが)。フィルムからデジタルになったのに映画の作り方がフィルム時代からあまり変わっていないんじゃないか?という、今回のインタビューにおける児山隆監督の現在の日本映画界に対する指摘には、深く頷かされました。
児山監督も辿ることとなった広告業界から映画界へのルートは、これまで映画を“撮れない”監督を数多く量産してきた一方で、リドリー・スコットやデヴィッド・フィンチャーを筆頭とする重要な映画監督を生みだしてきました。その際、観客は映画界の常識に囚われないその映像の力に目を奪われがちでしたが、デジタル化の時代を経て改めて気づかされるのは、そうした才能が映画にもたらしてきたのは「撮り方」そのものの変革だったのではないかということです。まだ一作しか世に送りだしていない児山隆監督をその系譜に位置付けるのは時期尚早かもしれませんが、一見ありふれた恋愛映画・青春映画を装いながらも、物語の構成から撮影や編集の手法まですべてが計算され尽くされた『猿楽町で会いましょう』は、そんなスケールの大きな才能との出会いを予感させます。
※本記事は、ストーリーの核心に触れる記述を含みます。未見の方はご注意ください。
宇野維正(以下、宇野)「新型コロナウイルスの影響で公開が約1年遅れたわけですけど、2021年に公開される日本映画の監督デビュー作というくくりでは、この作品を超えるものはまず出ないだろうと」
児山隆監督(以下、児山)「ありがとうございます」
宇野「単純に秀作ってことだけじゃなく、脚本も、撮影も、編集も、とにかくあらゆる面のパラメータが高い、巧い作品だなと。今日はどうしてデビュー作からこんな作品を撮ることができたのかということをお伺いしたいと思ってるんですけど。まず、この『猿楽町で会いましょう』という作品が生まれたきっかけは、『未完成映画予告編大賞』を受賞したことなんですよね」
児山「はい。まだない、架空の映画の予告編を作って、その予告編がコンペにかけられて、そこでグランプリ作品を撮った作品に3000万の予算がついて長編が撮れる、という賞で」
宇野「企画もユニークだし、その3000万という金額も含めてすごく現実的な賞ですよね。この賞の母体はどこなんですか?」
児山「母体はオフィスクレッシェンド(堤幸彦、大根仁、平川雄一朗らが所属するテレビ・映画の制作プロダクション)で、予算も全部そこが集めてくれるんです」
宇野「へーっ! 別にこの賞を獲った監督をオフィスクレッシェンドに所属させようとかってことではなく、純粋にいい映画を作る才能を発掘するためにやってるんですか?」
児山「そうみたいです。自分も声をかけられてませんし(笑)」
宇野「児山監督って見た目は若々しいですけど、『猿楽町で会いましょう』の登場人物でいうと、年齢的には小山田(金子大地)ではなく、嵩村(前野健太)のほうに限りなく近いですよね?」
児山「そうですね。前野さんのひとつ下ですね」
宇野「新人監督の作品っていう情報だけでこの作品を観たら、主人公の小山田に監督の自己は投影されているんじゃないかって思いがちですけど、実は嵩村側っていう(笑)。これまで、どういうキャリアを歩んでこられたんですか?」
児山「大阪の河内長野市って、ほとんど和歌山県に近いところ出身で。普通に大阪の大学に通って、その後、東北新社がやっている映像テクノアカデミアっていう東京の専門学校に行って。ちょうど当時“ミニシアター系”って呼ばれる映画が盛り上がっていて、結構CMディレクターの方とかが映画に進出していた時期で」
宇野「石井克人監督とか中島哲也監督とか、そのあたりですよね?」
児山「まさに石井克人監督がその学校に講師で来るって書いてあって、それで行くことにしたんです。僕らの年は石井監督はもう講師から外れたみたいなんですけど、2年目に林海象監督と東陽一監督がいらっしゃって、そこでいろいろ教えていただいたという感じです。そのあと、林海象さんのところで7、8か月間ぐらい見習いとしてお世話になって。それが26歳ぐらいの頃です。でも、助監督としての適正は全然なかったですね」
宇野「もう自分で撮るしかないと」
山「はい。それで、いまはもうなくなってしまった会社なんですが、友人がある映画制作会社に入って、プロデューサー見習いのような仕事をするようになったんです。そこで企画を書いては提出してっていうことを繰り返して。そこで一つ、青春映画の企画が通って、2000万円くらいの製作費で動き始めたんです」
宇野「そこそこ大きい企画ですよね」
児山「でも、脚本を書いてロケハンまでやって、もうクラインクインの直前のタイミングで、急にお金が出ないことになっちゃって、頓挫しちゃったんですよ」