伝説の写真家の志に共鳴…ジョニー・デップが挑んだ、水俣病を描く覚悟と熱意
いまなお続く被害者たちの闘いを、世界へ発信
水俣病が公式に確認されたのは1956年(1968年に公害認定)。65年が経った現在も被害者による様々な訴訟が続いている。日頃から環境問題について確固としたビジョンを掲げてきたデップは、水俣病に関する記事を読み、「実際にそれが起こったという事実以上に、その影響が解決されたわけではなく、いまだに続いているということが衝撃的」だと語る。環境問題に関心を持つ一人の人間として、彼が「この歴史は語り継がれなければならない」と強く感じたのは、いまも世界中で公害や環境汚染の問題が起きているからだ。
本作では、企業の責任と損害賠償を求めてチッソを提訴した活動家グループの闘いもしっかり描かれている。水俣病で苦しむ我が子への愛情や自身の尊厳のために、市井の人々が大企業や政府に立ち向かい、裁判で勝利を勝ち取るまでの姿からは「一人一人は小さな力でも、団結すれば強くなれる」というデップのメッセージが伝わってくる。映画の持つ力をフルに活用して、水俣の現実を世に知らせ、より多くの人に関心を持ってもらうこと。それこそが、本作の製作にチャレンジした彼の願いだ。
1970年代の水俣市を再現した、セルビアとモンテネグロでの撮影
日本を舞台にしたハリウッド映画のなかには違和感を覚える作品も少なくないが、本作で描かれる1970年代の水俣の街はとても自然で、まるで日本で撮影したかと思えるほど。実は、水俣の街そのものが1970年代以降に大きく変化していたため、水俣でのロケ撮影はごく一部。残りの部分はセルビアのベオグラード港の倉庫でのセット撮影と、モンテネグロのティヴァトという海岸沿いの町でのロケ撮影で構成されている。
ティヴァトには海辺の居酒屋、舟小屋、ユージンの暗室といった建物を造り、小道具にいたるまでリアリティを追求。13世紀に建てられた修道院と、小さな難民のコミュニティがあるティヴァトの“花の島”でもロケ撮影が行われ、ここでの映像が水俣湾と見事にマッチ。70年代の水俣市の再現に成功した。
そのことに対する知識がなければ、関心を持つこともできない。そして、年月が経てば、人々の記憶はどんどん風化してしまう。世界中で同じことが繰り返されているいまの時代だからこそ、当時を知らない若い世代をはじめ、できるだけ多くの人たちに、ジョニー・デップが役者人生をかけて作り上げた本作が発信する普遍的なメッセージを受け取ってほしい。
文/石塚圭子