カリスマ書店員が『ブレット・トレイン』に見た“原作への敬愛”を解説!「伊坂幸太郎の“遊び心”と合致している」
「期待を裏切ることで思っていた以上の膨らみがあった」
伊坂の小説を読んできた新井は『ブレット・トレイン』をどのように観たのだろう。「まったく前情報がない状態で観ました。だから最初は、外国人が描く東京や日本に対して、日本を知っているからこその違和感が少しありました。でも、映画を観ていると、だんだんブラッド・ピットが伊坂幸太郎の書いた人物に思えてきたんです」と鑑賞前後の心境の違いを吐露。
もし、日本で映画化されていたとしたら、これだけのスケールある作品になっていたかどうかは怪しい。「最近は売れた小説の映画化というのが当たり前になっていますが、原作を読んだ人たち全員の期待に沿うことは難しいですよね。でも、こうやって日本ではない国で映画化すると、期待を裏切ることで思っていた以上の膨らみがあった。私たちは自分が知っていることしか想像できないから、異なる要素が入ると思わぬ発見がある。だから、この企画をこの座組で映画化したのは大正解。ともすれば、小説を映画化するやり方が変わっていくかな?とも思いました」と、ハリウッドで実写化を行った本作への感想と、今後の“実写化”への期待を寄せた。
そういう意味で、もし『ブレット・トレイン』の舞台をアメリカに改変していたとしたら、どうなっていただろう。「日本の物語を外国に舞台を置き換えた映画は、いままでにもあったと思うんです。『ブレット・トレイン』は、いつの時代かわからないし、あんな駅の風景も存在しない。また、少し昔の日本のようで、近未来の日本のようでもある。外国人が想像する日本みたいなものをやっていることで、奇しくも伊坂幸太郎の“遊び心”みたいなものとうまく合致しているおもしろさがありますよね」。
「想像もしなかった人が演じているからこそ、それが違和感のない理由にもなっている」
そもそも小説は、文章を読んだ読者各々の想像がある。それゆえベストセラーであればあるほど想像の分母も大きくなって、小説を超えることは難しくなるはず。だが、その想像を悠々と超えてゆく痛快さが、この映画のビジュアルにあると新井は語る。「この映画は、小説を読んだ誰もが脳内では想像していなかったものを描いているから、小説を読んだ人が『思ったのと違う』と感じたり、比べるような作りにもなっていない。だからがっかりさせられることもない。むしろ、映画を観て小説を読むと『マリアビートル』の“七尾”=“天道虫”というキャラクター(映画ではレディバグ)がブラッド・ピットにしか思えなくなってくるはずで。想像もしなかった人が演じているからこそ、それが違和感のない理由にもなっているのがおもしろいですよね」と作品の魅力を分析した。
このことに対しては、伊坂本人も、「小説と同じ部分が予想以上に多くて。あ、『マリアビートル』だと僕も思いました」と「ダ・ヴィンチニュース」のインタビューで語っている。「小説どおりに映像化するのであれば、あまり意味がないのだけれど、この映画は“伊坂っぽい”ポイントをしっかり押さえている。そこがいいところだと思いました」。