ゴダール、Jホラー、神代辰巳…『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』で佐井監督が肉薄する、“ドキュメンタリーのようなフィクション”

インタビュー

ゴダール、Jホラー、神代辰巳…『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』で佐井監督が肉薄する、“ドキュメンタリーのようなフィクション”

没後40年のいまなお、幅広い世代に影響を与え続けている詩人・劇作家の寺山修司。1960年代には、テレビを使って実験的なドキュメンタリーを何本か制作しているが、そのなかでも“問題作”として知られているのが、1967年に放送された『日の丸』だ。街行く人々に「日の丸の赤はなにを意味していますか?」と問いかけ、様々な反応を見せていく異色のドキュメンタリー。この作品を見たTBSドラマ制作部の佐井大紀監督が、敢えて同じ手法で令和の世に問う意欲的な一篇を世に放つ。その名も『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』(公開中)。20代後半にして寺山と我々に“挑戦”を仕掛けた佐井監督のねらいを聞く。

「日の丸というセンシティブな題材を、井上陽水さんのような軽やかさで語ることができないかなというのが根っこにある」

『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』佐井大紀監督にインタビュー!
『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』佐井大紀監督にインタビュー!

──映画を拝見して、「日の丸」=国旗はどことなく聖域化されている印象を受けました。自ら市井の人々に問うた佐井監督は、その辺りを皮膚感覚で語れるのかなとも思いますが、どのような感触を得たのでしょうか?

「日本は特にそうかもしれないですね。『いまさら言うのも野暮じゃないか』という感じで、日の丸や皇室の話をしないようにしていますし、触れないことによって環境を維持しているところもあるのかな、と。ただ、個人的にいまある環境を疑うことはすごく大事だと思っていて──だからこそ、この作品を作ったところもあるんですけど、疑わないことによって平和が保たれているという側面があるのも、また事実なんですよね。とはいえ、日本はそこに寄りかかりすぎているのかもしれないと感じているところもあるわけです。それが良いか良くないかは別として、社会や政治が一つの方向にのみ向かっていくと、歯止めが利かなくなる恐れも出てくる。つまり、『日の丸について語るなんて野暮じゃない?』と、事なかれ主義的に話題にしなかったがために一方向にのみ傾いていくのは、社会として健全じゃないなと思っているんです。では、傾かないためにはどうすればいいか?なにを正しいと思うかは人それぞれですが、一人一人が当事者になることが、社会の均衡を保つことにつながっていくのかなと。そのきっかけづくりを政治的なアプローチではなくて、文学的、詩的な方法でできないかなと考えて自分なりに実践したのが、このドキュメンタリーなんです」

──「話すのも野暮」とスルーするのは、ある種の思考停止とも言える気がしていて。それこそ本編にも引用されている寺山修司の言葉ではないですけど、『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』は“水面に石を投じる”意欲作になったのではないかと。

「ちょっと話が逸れるかもしれないんですけど、井上陽水さんがもし現在の世の中に若手アーティストでデビューして『傘がない』や『ワカンナイ』を発表していたら、炎上したかもしれないと思っているんです。陽水さんの歌詞って、世の中の価値観を斜めに見て疑問を投げかけているじゃないですか。それって寺山と同じスタンスなんですよね。答えを導き出すのではなくて、価値観そのものを問い直しているんですけど、不寛容な現代では叩かれる対象になる気がしていて。けれども、僕自身はウィットに富んだブラックユーモアが好きだし、(反骨精神で権力腐敗を批判した明治時代のジャーナリストである)宮武外骨の風刺的な姿勢を標榜してもいるんですけど、日の丸というセンシティブな題材を、陽水さんのような軽やかさで語ることができないかなというのが、根っこにはあったりもするんです。真っ向から描くのではなく、比喩を通して世の中の価値観を揺さぶったり、多くの人が『こうだ!』と盲目的に思い込んでいたりすることを、『こういう見方もあるんじゃないか?』と提示するものを作りたかったと言いますか。そういう意味で、『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』は自分がやりたいことを注ぎ込めたと感じています」

『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』が初ドキュメンタリーとなった佐井大紀監督
『日の丸~寺山修司40年目の挑発~』が初ドキュメンタリーとなった佐井大紀監督[c]TBSテレビ

──斜めの角度から価値観を問い直したことで、見えてきたものはなんだったのでしょうか?

「当初は、日本社会や時代そのものが見えてくるのかなと思っていたんですよ。ところが、寺山や(1967年版『日の丸』のディレクターで、テレビマンユニオン創設者の一人である)萩元晴彦さんに肉迫していくにつれ、井上陽水さんの曲のごとく、物事に対して疑問符、クエスチョンマークをつけているということに気づいたんです。それによって、なぜ自分のセンサーが半世紀以上も前に作られた『日の丸』という実験的な番組に反応したのかがわかった気もしていて。つまり、作品そのものがクエスチョンマークになろうとする構造だったから、自分の琴線に触れたのだろうなと。これが、いわゆるストレートに反戦を訴えたり、戦争犯罪を暴いたりするドキュメンタリーだったらそこまで惹かれなかったのかもしれないんですけど、観た人に疑問符をつける作品だったからこそ、自分も実践してみたくなったんだというのが、作り終えてみて感じたことでした」


――明確なメッセージ性のある作品は、観る前からアレルギー反応を示す可能性もはらんでいたりもしますよね。その点、『日の丸』は1967年版も佐井監督版も、観たあとに人によっては“副反応”が出てくるようなつくりになっていて。

「そうですね、副反応が出る人もいれば、出ない人もいるような作品にはなったかと思います。ドキュメンタリーとしては、わりとポップに仕立ててはいるんですけど、言ってしまえば『国旗の話をしているだけ』なんですよね。別にやましい話をしているわけではないんですが、『日の丸』について語るというだけで『えっ?』と大ごとになってしまいがちなところがある。そこに、日本という国の姿が映しだされてもいるんですけど。これがアメリカで星条旗についてのドキュメンタリーを作ったとしたら…誤解を恐れずに言うと、それほど広がらないんじゃないかと思っていて。でも、日本だと『君が代を歌うの!?ここで?』と戸惑う人のほうが多かったりするわけで――。それが本編でも提示している“日の丸の赤は空洞”説の論拠になると、作り終えてから確信しました」

寺山修司への敬愛をたっぷり語ってくれた佐井大紀監督
寺山修司への敬愛をたっぷり語ってくれた佐井大紀監督[c]TBSテレビ

──物事を知るにつれ、視点が増えたり視野が広がったりしますが、どこか一方から見るのではなく多面的に事象を捉える必要性を感じたりもしました。

「大々的にニュースとして報じられない事件も、ピントの合わせ方によっては大ごとにも捉えられるわけで、見え方が変わってくるんですよね。望遠レンズもあれば単焦点レンズもあって、それらを使い分けながら社会や事象を見つめるべきだと僕は思うんですけど、いつからか、ピントがぼやけたまま物事を考えるというか、世の中的に『そんなによく見えすぎても、逆に良くないんじゃない?』という空気になってしまったように感じているんです。でも、本当にそうなのかな、と。例えば主婦が万引きをしたとします。それを社会構造の貧困として描いた映画にしたのが、是枝(裕和)監督の『万引き家族』であって。ところが、これがロマンポルノになると、抑圧された女性の欲求が万引きという行為によって一時的に満たされるも、現場を目撃した男に脅かされて性行為に到らざるを得なくなる──という描かれ方になるんですよね。あるいはクエンティン・タランティーノだったら、万引きした女性が店長に捕まるも逆に血を見せる、みたいな展開になっていくことが考えられるわけで。要は、万引きという行為をどういう社会認識で捉えるかによって、題材にする映画も変わってくるという話なんです。そういう多面的な見方をするために歴史を学んだり、本を読んで知識を蓄えたり、映画や演劇といったカルチャーに触れたり…と、知見を深めることが必要なんじゃないか、と。ひいてはそれが物事を見るレンズを多く持つことになるんじゃないかなと考えているんですけど、『日の丸〜寺山修司40年目の挑発〜』という映画が、そういったレンズを持ち得るために役立てばいいなと思ってもいるんです」

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