観ると価値観が変わる?映画『バービー』で描かれる夢のファッションと、完璧じゃない足元
本作でも語られるとおり、バービーは、女性実業家のルース・ハンドラーが、幼い娘バーバラのために生みだした人形。のちに大ヒットとなって、世界中の子どもたちに愛されるようになるのだが、バーバラにとってそうだったように、バービー人形と遊ぶことでファッションを学んだ人も多いのではないだろうか。シチュエーションやテーマに合わせて、アイテムを身に着ける楽しさがあること。身にまとう衣服には、社会的な背景の影響や流行があること。ルースがバービーに込めた、「You can be anything(あなたはなんにでもなれる)」という想いのとおり、そのファッションに身を包めば、なりたい者にもなれちゃうこと。そして、ファッションが自分を演出できるものであることを知ると同時に、バービーが子ども心にもたらすのは、コンプレックスとの出会いと克服でもあるのかもしれない。
どんなヒールやシューズにも着せ替えできるように、つま先立ちがデフォルトの「バービーフィート」は、足を長く見せたい時に活用できる、とサブリミナル効果的に子どもたちに教えたのはバービーであると論じるのは、背が低いことがコンプレックスで、お姫様ごっこなどで遊ぶときは必ずつま先立ちしていた幼少期を過ごした筆者だけではないでしょう。実際のところ、2018年にアメリカのファッションウェブメディアが、「いま、モデルたちの間やインスタグラムの投稿で、バービーフィートが人気」という記事をアップしていたし、本作の中でも平らになってしまった足は、“完璧だった”自分や世界の崩壊として描かれている。ヒールが魅力的にみせるアイテムであることと比べて、ぺったんこのビルケンシュトックは、コンプレックスやネガティブなことだってある、リアルな人間世界の象徴として登場する。
ヒールの歴史的な背景には、ルイ14世やマリリン・モンローなんかが登場するが、その詳しい説明はさておき、前述したピンクにしても、ヒールにしても、もとは男性も着用したけれど、いつの間にか“女性のもの”になっていった。「セックス・アンド・ザ・シティ」のキャリー・ブラッドショー(あえて役名)が、住むところや資産より優先してきた、とびきりステキな人生の相棒としてヒールを愛してきた一方、昨今ではケイト・ブランシェットやクリステン・スチュワートなど女優たちが、公式のイベントで「ヒール・ボイコット」をしたニュースも世界を駆け巡ったりして、世の中というのは実に興味深い。彼女たちは、“女だからヒールを履くべき”という決めつけに対する反発でそのような主張をしていて、性別によって着用するものが決められるのはおかしい、というのがいまの時代らしさなのだろう。実際のところ、フェミニズムや女性性、女性らしさや女性の立場、というのは本作のテーマでもあり、とても深く表現されている。
たしかに、多様性(ダイバーシティ)と包括性(インクルージョン)が、思いやりの延長線上で考慮され、きちんと反映される社会はすばらしい。現在は、いろいろな肌の色やボディサイズ、そして車イスや義足のバービーたちがいる。ルースがバーバラの将来を憂いた1950年代後半には、女性が自由に職を選ぶことすらできなかったのだ。2024年で誕生から65周年を迎えるバービー人形は、たった65年なのか、ようやく65年なのか、 なろうと思えば“なんにでもなれる”時が到来している。もちろん、本作には制作の意図やメッセージがあるだろう。だけれど、私たちってなにか大切なことを忘れていないだろうか。
本作で描かれているとおり、結局人ってそれぞれであり、世間が決めつけたようなファッションっていかに主観的なものか。ずっとしがみついて、こだわってきた“完璧”ってなんなのか。ファッションや映画のようなエンターテインメントは、もちろん問題提起やなにかの提唱の時もあるけれど、純粋に楽しむために存在すること。世間に求められている模範解答より重要なのは、自分がどう感じているか。メディアも世間もまわりも、なんだかキャッチ―でSDGsな正解を謳ってくるけれど、こだわりやエゴを手放して、ワクワクして好きと思えるならそれがいい、という感情を味わえるなら、目の前の世界が自分にとっての「本当のバービーランド(完璧な理想郷)」になるんじゃないだろうか。ちなみに、ビルケンシュトックは、本作公開後に、Googleでの検索率が500%増えたそう。ステキなシューズとして紹介されないとイヤです!とこだわっていたら、こうはなっていないでしょう。
文/八木橋 恵