4Kレストアでさらに美しく妖艶に…“ソフトポルノ”を確立した『エマニエル夫人』はなぜ伝説となったのか
ポルノ全盛の時代に、女性向け映画として舵を切る!ヘラルド映画の大胆な宣伝戦略
1970年代前半の日本は、空前のポルノ映画ブームのまっただなか。中島貞夫監督の『大奥(秘)物語』(67)や石井輝男監督の『徳川女系図』(68)を皮切りに確立していった“東映ポルノ”を契機に、大手各社が相次いでポルノ映画に参入。1971年には現代まで受け継がれている“日活ロマンポルノ”もスタートして、ブームは一気に本格化。
この日活ロマンポルノは、安価な制作費で安定した収益が見込めるという経営的なメリットもさることながら、いくつかの基準を設けながらもポルノであればどのようなストーリーも可能な実験性が功を奏し、数々の傑作が生まれた。記念すべき最初の一本となった西村昭五郎監督の『団地妻 昼下がりの情事』(71)を皮切りに、曾根中生監督や小沼勝監督、神代辰巳監督といったスター監督を輩出し、相米慎二監督や金子修介監督、そして後にアカデミー賞を獲得する滝田洋二郎監督らがここから駆け上がっていったことは誰もが知るところだろう。
そのような背景のなか、いわゆる“洋ピン”と呼ばれる海外のポルノ映画も数多く日本に輸入されていた。『エマニエル夫人』も、当初はそれらと同じように成人向け映画館で公開される予定であり、日本で配給を手掛けた日本ヘラルド映画は2000万円ほどの金額で買い付けたといわれている。同作がよくある海外ポルノ映画とはまったく異なる道を歩むことになったのは、日本ヘラルド映画の宣伝部長として数々の洋画を成功させてきた原正人をはじめとした、同社の大胆な宣伝戦略の効果である。
例えば誰もが「エマニエル夫人」と聞いて真っ先に思い浮かべる、裸で椅子に座っているシルヴィア・クリステルのポスター。これは元々、ファッション誌などで活躍していた写真家フランシス・ジャコペッティが撮影した、映画とは無関係の写真(ちなみにジャコペッティは、『続エマニエル夫人』で監督を務めている)。このビジュアルができたことで、宣伝部のなかでは女性客をターゲットにする案が出てくるようになったという。『エマニエル夫人』も写真家ジュスト・ジャカンがメガホンをとり、まるでファッション誌のようなフォトジェニックさにあふれた作品。その作戦はまさに大成功だったといえよう。
そして当初予定していた成人向け映画館での公開ではなく、文芸映画やヨーロッパ映画など女性客を集める作品を数多く上映してきた東京日比谷のみゆき座での公開に向けて動きだすことに。もちろんそこで大きな課題となったのは、一般映画として公開するための審査に通ること。作品全体を通して数十箇所もの大幅な修正を加え、無事に『エマニエル夫人』はポルノ映画から“一般映画”に変身を遂げることとなった。
1974年12月21日にみゆき座で封切られ、同劇場では翌年の3月20日まで上映。連日女性客を中心に長蛇の列だったと記録されている。90日間の入場人員はみゆき座1館だけで37万3107人(参照:「日比谷映画」「みゆき座」閉館記念ミニプログラム)。当時の同劇場の座席数は810だったので、1日平均4145人の動員があったということは、立見などを考慮せず1日5回上映だったと想定しても3か月間、常に満席状態だった計算になる。1962年に洋画系ロードショー館に転向した同劇場は2005年に閉館しているが、その40年以上の歴史のなかでみても『卒業』(68)や『カッコーの巣の上で』(75)を上回る、歴代最多入場人員数を打ち立てる大ヒット作に。
それからおよそ半世紀。ついに美麗な4Kデジタル・リマスターでスクリーンに帰ってくる『エマニエル夫人』。今回の上映に合わせて寄せられた著名人のコメントのなかでも、大槻ケンヂの「もしタイムマシンがあったら『おい驚けよ!お前は約50年後の未来に滅茶苦茶クリアな映像で『エマニュエル夫人』観れるんだぞ!』と親に隠れてこそこそテレビ洋画劇場で夫人を観ていたガキの頃の自分に言ってあげたい。なにより先にそれをやりたい。それほど感動的な4Kレストア版上映」というコメントが実に的確にこの再上映の衝撃を言い表している。
あの頃に映画館で観ていた人も、VHSやDVDで観たことがあるという人も、そしてまだ観たことがない人も。リマスターされてより美しく洗練された状態でよみがえったエマニエル夫人の姿を拝みに、劇場に足を運んでみてはいかがだろうか。
文/久保田 和馬