【ネタバレレビュー】明かされる鞠子の暗き過去…「SHOGUN 将軍」 第5話は日本人こそ考え深い“日本の死生観”に肉薄する
視聴者にも投げかけられる日本人の“死”と“生”の捉え方
このシリーズのおもしろさのひとつに、当時の日本人の価値観や風習の丁寧な描写がある。イギリス人の按針の視点を通して描かれことでよりインパクトが強くなっているのだが、この第5話でもそんなエピソードが用意されている。按針が虎永から貰ったキジを家の軒先に吊るし、家の者にたどたどしい日本語で「サワったらシぬ!」と宣言。おそらく本人は軽い気持ちだったのだが、主人の言葉が絶対の妻や使用人にとっては重く、耐えられなくなるほど臭くなった腐ったキジを庭師の植次郎が処理。彼は病のため死期も近く、自ら申し出て責任を取り死んだと言うのだ。
按針は唖然として途方に暮れ「命を軽視している!」と憤るのだが、このエピソードにも裏がある。網代での出来事がすべて虎永に筒抜けなのは間者(スパイ)がいるからに違いないと思った藪重が捜査を始めたのだが、折しも亡くなった植次郎が間者だったという証拠が見つかる。しかしそれもフェイクであり、本当の間者はなにかと按針の世話を焼いてくれていた村の長、村次。実は虎永が信頼している家臣だったのだ。
そして、本エピソードの大アクションは網代を襲う大地震!さすがハリウッド製らしいVFXで再現された激しい地滑りで、虎永が大地に呑み込まれるという事態にまでなってしまう。武士も村人も多くの命が犠牲になるのだが、そこで按針の頭をよぎったのは、植次郎の死を「もう終わったこと」と片づけた鞠子に自分が激昂した時、彼女が口にした言葉ではないだろうか。
「この世に生まれて、やがて死ぬ。私たちにはなす術もないこと」
地震によって命を絶たれ負傷した者たちを目にした按針は、確かにそうかもしれないと思ったのではないか。が、しかし、それが本シリーズの重要なテーマではない。虎永と按針の生き様を描くことで、そんな無情な死生観に抗うのが人生を生きることだと告げたいのではないかと思う。このシリーズらしく、テーマの表現も裏読みが必要なのかもしれない。
これから後半に突入するシリーズ。そのカギを握るのが本エピソードの最後に印象的に登場する落葉の方(二階堂ふみ)。亡き太閤の側室で世継ぎの八重千代の生みの親が、江戸から大坂へと移って石堂と顔を合わせ意味シンな会話を交わすからだ。虎永、石堂、そして落葉の方のそれぞれの思惑がどうぶつかり合うのか?その時按針はどんな行動を取るのか?後半の展開が楽しみだ。
ここで少し、原作者のジェームズ・クラベルについて書いておきたい。日本では「将軍」の作者としてだけ知られているが、実は映画界でも活躍していた人。デイヴィッド・クローネンバーグの『ザ・フライ』(68)のオリジナル、『ハエ男の恐怖』(58)で脚本家デビューし、スティーヴ・マックィーンの出世作ともなった不滅の傑作『大脱走』(63)の共同脚本を務め、シドニー・ポアチエが教師に扮した『いつも心に太陽を』(67)では監督にも挑戦している。第二次世界大戦にイギリスから従軍し日本軍の捕虜になった経験からアジアに興味を持ち、「将軍」を書いたという。もし彼が生きていたら、より日本人の価値観に肉薄したこのシリーズをどう観たのだろう。想像するだけでもおもしろい。
文/渡辺麻紀