観客の度肝を抜く濱口竜介監督『悪は存在しない』。映像とせめぎあう言葉の精度と響き、その圧倒的おもしろさ【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
濱口竜介監督の新作『悪は存在しない』について語る上で、まず手続き的に触れなくてはいけないのはその特異な作品の成り立ちだ。本作はまず、『ドライブ・マイ・カー』(21)の音楽を手がけた石橋英子から、ライブ用の映像を制作してほしいという依頼から始まった。それは石橋英子の即興演奏と濱口竜介の映像が織りなす『GIFT』という作品に結実し、それと平行してその映像制作のために撮影された素材を映画館で上映される劇映画として構成していったのが本作『悪は存在しない』である。
というと、毎回舞台の上で醸成される一回きりの体験となる『GIFT』と、映画という再生芸術のフォーマットに則った『悪は存在しない』は不可分なものなのではないかと思われるかもしれないが、それぞれは独立した作品として鑑賞されること、そして語られることに開かれた作品となっている。それは今回の取材に入る前の会話で濱口監督自身が裏付けてくれたことであり、実際、『悪は存在しない』→『GIFT』の順番で鑑賞した自分の実感とも合致する。したがって、ここでは繰り広げられているのはあくまでも映画『悪は存在しない』についての会話だ。
そうした作品の成り立ちに加えて、ベルリン、カンヌに続いて本作でヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞を受賞したことで、濱口監督が同時代において世界的にも突出して高く評価される作家となったことは欠かせない前置きではあるものの、それがある種の「重さ」を伴った先入観として観客に機能してしまうこともあるだろう。今回のインタビューでは、その「重さ」を少しでも取り除き、『悪は存在しない』、そしてこれまでの濱口竜介監督作品に特有の「おもしろさ」に焦点を当てるものにしたいと思った。
その際に手がかりとなるのは、『悪は存在しない』という一度聞いたら忘れることができないタイトルのインパクト、そして本作においては特に中盤で繰り広げられる台詞劇としての吸引力に代表される、濱口監督という作家の「言葉」への鋭敏な意識だ。それはきっと、世界中の映画人から次の動きが最も注目されている日本人監督である濱口監督の大きな未来においても、重要な鍵となっていくに違いない。
「この『悪は存在しない』は“本来は発表されないはずだったその原作映画”みたいな位置づけなんです」(濱口)
――昨日、映画関係の仕事仲間に「明日、濱口監督に取材するんだよね」と言ったら、「おおぅ…」という、ちょっと畏れ多いみたいなリアクションをされてしまって(笑)。
濱口「いやいや、そんな…」
――濱口監督と話すのには覚悟がいることなんだろうなっていう(笑)。実際、自分も気負ってしまうところはあるんですけど、『悪は存在しない』がとにかくおもしろくて大興奮してしまって。
濱口「ありがとうございます!」
――今回は「作品のおもしろさを伝えたい」という想いでインタビューのオファーをさせていただきました。
濱口「確かにこれまでの作品とは単純にアプローチの仕方が違う、作品の成り立ちも石橋英子さんからの発案がきっかけでしたし、ちょうど自分も全然違うことがやりたいと思っていた時期だったんで。なんかそういうふうに言っていただけると、この作品でなにかが広がったのかもしれないなという気はしますね」
――前提として、世間的なイメージは別として、そもそも濱口監督の作品って台詞のやりとりだけをとってみても、実は誰が観てもおもしろい作品を撮ってきたと思うんですよね。ただ、作品によってはとても尺が長かったり、今回の『悪は存在しない』もまさにそうですが、作中で唐突な展開があったり。
濱口「はい、はい(苦笑)」
――ただ、近作では『寝ても覚めても』や『偶然と想像』がそうですけど、少なくとも2時間以内の作品に関して言うなら、敷居の高い作品ではまったくない。特に今回の『悪は存在しない』はこれ以上ないほど明確な三幕構成になっていて、そういう意味でもすごく観やすい。
濱口「そうですね、そうだと思います」
――作品の特異な成り立ちについてはいろんなところでお話されていると思うので焦点を絞ってお伺いしますが、この尺と構成は、どの程度最初から想定されていたんですか?
濱口「本当に、最初はほとんどなにも想定してなかったんですよ。石橋英子さんのライブ・パフォーマンス用の映像を撮るということになって、でも、いわゆる音楽のライブの後ろでよく流れているような抽象的なタイプの映像は、自分としてはまったくどうしたらいいんだかっていう感じで。そこから石橋さんとやり取りをしていって、どうも普段自分が作っている作品の延長でいいというか、そのほうがよいらしいっていうことがわかって。じゃあ、本当に脚本を書いて物語映画を作るという“体(てい)”で始めて、そこで結果的にいろんな素材が出来てくるはずなので、それを使ってライブ・パフォーマンス用の映像を構成しましょうっていう流れの末に完成したのが『GIFT』です。だから、この『悪は存在しない』は“本来は発表されないはずだったその原作映画”みたいな位置づけなんです」
――最初に今回の企画について聞いた時は、もっと抽象度の高い作品になると思ったんですね。でも、実際に観てみると全然そんなことなく。
濱口「まず念頭にあったのは、石橋英子さんのライブ・パフォーマンスの映像として、彼女の音楽にふさわしい映像を撮るための物語が必要でした。その映像は単に自然の映像じゃなくって、その中には人物も当然いるだろう、と普段の自作の延長として考えるわけです。その登場人物をちゃんと演出していくためには、抽象的なクールな雰囲気の中に単に人を配置して動かすのではきっとあまりよろしくなくて、自分が普段やっているように、物語の中でキャラクター自体が『生きている人』として育っていく必要があって。そこをちゃんとやらないと、その人物の存在というのが、自然の風景の中で際立ってこないと思って、結果として石橋さんの音楽とも拮抗しないだろう、と。なので、物語的にはいろいろと無茶な展開をしてるのかもしれません」
――いや、無茶ではないと思いましたよ。物語の時系列もリニアなものですし。
濱口「そうですね。無茶というか、普通ではない、オーソドックスではない展開といったほうがいいかもしれません。それは狙ってやるときっといやらしい感じになったと思うんですが、企画が要請するものをちゃんとやろうとしたら、必然としてこうなったっていう気がしています」
――最初に観た時は、単純にまったく次の展開が読めなくて、そこがサスペンス的にとてもおもしろかったんですけど、再見してみると、実は最初からすべての描写があの結末へと着実に向かっている。
濱口「はい」
――近年あまりに乱用され過ぎているのであまり使いたくない言葉ですけど、いわゆる“伏線回収”という点でも、登場人物の表情や所作がちゃんと描かれていて。さすがに1回目に観た時は最後の展開にとても驚きましたが、ああ、これはそこまで突飛な話ではないんだなという。そういう意味でも、繰り返し観ることでおもしろさが増していく作品でした。
濱口「ああ、よかった。そうやって2回観て、演出の細部を発見していただけるのはありがたいですね」
――でも、それってごく普通の優れた劇映画の楽しみ方でもあるわけじゃないですか。だから、そういう楽しみ方ができる作品っていうことは、ちゃんと言っておきたいなと。
濱口「どんな企画であっても、やっぱり脚本を書く時は、普通に映画を作るつもりでしか書けないっていうところはあります。それはやっぱり観客にとって面白くないといけない。それと、役を演じる人たちのモチベーションというのも基本的にすごく大事なものだと思っているので。単純に役者が『この役、なんでこういうことをするんですか?』っていう違和感を覚えると、それは作品の仕上がりにも反映されてしまうと思っているんです。脚本もそうですが、役者に渡す副次的な資料も、そういう違和感がなく演じられるようにというのは、今回もいつも通り準備しましたね」
――『悪は存在しない』がここまでスリリングな作品になったのは、作者である濱口監督の足場が不安定だからなのではないかとも思いました。というのも、通常、観客は主人公の視点に作者を重ねることが多いわけですが、濱口監督自身はどちらかというと、山奥の集落で生活を営んでいる主人公の視点ではなく、そこにグランピング施設を作ろうとしている都市生活者側の視点に近いですよね?実際にその土地で映画を撮影するという行為自体も、外部からの侵入なわけで。
濱口「そうです、そうです」
――だから、この作品はそういう侵入者を断罪する側に立った作品というより、むしろ断罪される側に立った作品なのではないかとも思ったんですよね。
濱口「確かに、おっしゃるように、(グランピング施設を作ろうとしている芸能事務所で働いている)高橋とか黛とか、東京から来る人たちの行動原理のほうが、スッと入ってくるという気持ちでシナリオは書いていると思います。今回はシナハン(※注:シナリオ・ハンティング。脚本を書くための現地取材)をかなり入念にしたんですけど、(主人公の)巧とか町の人たちの人物像っていうのは、そこで実際に聞いたことがかなり反映されていて。その話というのは、こちらはそれこそ都会からやってきたよそ者としての立場から聞くわけです。その上で、非常に『その通りだな』って思うことや、感銘を受けたりすることがたくさんあったんですけど、それでも自分は“所詮よそ者である”っていう感覚というのはずっと残っていて、そこの感覚が高橋や黛の描写に転化されたと思います。だからといって高橋とか黛の側のほうに軸足を置いているってわけでもないんです。念入りに『どっちつかず』にすると言うか、そのバランスは、難しかったですけど、脚本を書いていて一番楽しいところでもありました」
――そこが、この作品の純粋なおもしろさにもつながっていると思うんですよ。こういう「都市と山奥の町」みたいな題材にアプローチする際に、作者がどんな出自であったとしても、映画やドラマのようなフィクション作品ってーーもちろんドキュメンタリー作品もそうですがーー「都市」を悪、山に象徴されるような「自然」を善として、二項対立的に描きがちじゃないですか。もちろん、『悪は存在しない』にもそうした側面はありますが、その視点が揺らいでいるというか、特に中盤の東京とその後の高速道路での移動シーンのパートは秀逸で。ちゃんと高橋や黛の人間性への共感めいた眼差しもあって。
濱口「そうですね。一般的な基準からは多少ずれてはいるのかもしれませんが(苦笑)、基本的に自分もおもしろい映画を作ろうとしているんですよ」