「これはいまの私がやるべき」呉美保監督が9年ぶりの長編映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』で描く“家族”の物語に迫る
『そこのみにて光輝く』(14)でモントリオール世界映画祭ワールドコンペティション部門最優秀監督賞受賞、『きみはいい子』(15)ではモスクワ国際映画祭にて最優秀アジア映画賞を受賞した呉美保監督による9年ぶりの長編映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』が公開を迎えた。五十嵐大の自伝的エッセイ「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」を映画化した本作に込めた思いを、呉監督に語ってもらった。
『きみはいい子』からの9年の間に、2人の子どもを出産した呉監督。育児に奮闘する日々を送るなか、短編作品を手掛けることはあっても長編作品には手を付けられなかったという。
「映画は我が子のようなもので、“産みの苦しみ”をたくさん味わってきました。目の前にもまだ手のかかる9歳と4歳の息子がいて、毎日が大変。“大変なこと”と“大変なこと”を一緒にするとなると、腰がなかなか上がらなかった」。
それでも「『映画、いつできるかな』と考えなかった日はない」のだという。「ここは太字ですね!」と笑い、「そんな時に出会ったのがこの原作。「『これはいまの私がやるべきものだ』とスッと入ってきた。良い出会いでした。自分にとって、子どもを産んでから初めての映画がこの作品になって良かった」と表情は晴れやかだ。
これまで手掛けた作品でも描いてきた“家族”というテーマ
呉監督は、これまで手掛けた作品で様々な角度から“家族”を描いてきた。母となったいま、“家族”の見え方に変化はあったのか尋ねると、「私自身は3人きょうだいで、小さいころは自分の母に気忙しいイメージを抱いていました。だけどいま、母の気持ちがすごくわかる。私も母と同じことをしているんですよね。同じ立場になったことで、母のありがたみを改めて感じます」とほほ笑む。
本作の主演、吉沢亮が演じるのは、きこえない、またはきこえにくい親を持つ聴者の子ども=「コーダ」として生まれた五十嵐大。歳を重ねるにつれ、ろう者の両親がいる家庭環境を特別視されることに心を乱し、大好きな母へいらだちをぶつけてしまう。
呉監督は本作を描くうえで「自分自身が過去、母に対してしてきたことへの懺悔のような気持ちと、母への感謝の気持ちを思い返しました。一方で『いつか自分の息子にこんなふうに反抗されるのかな』とも。親と子、どちらの目線も想像しながら描きました」と、現在育児中でもある立場で、母と子両方の目線から本作に向き合うことができたと明かした。
少数派の人々を描きながらも普遍的なテーマも持った作品に
原作のタイトルとは異なり、映画化された本作のタイトルに「ろう」の言葉が用いられていないことから、本作はコーダに限らない、普遍的な家族の物語であるようにも感じられる。ねらいを聞くと、呉監督は「私としては“どっち”も大切にしたいと思っていました」と語る。さらに「コーダの葛藤ってなかなかフィーチャーされないんですよね。今作と同じく実際のろう者が両親を演じている『コーダ あいのうた』は私も好きな映画ですが、主人公が夢に向かっていくあの物語とは違い、この作品は五十嵐さんが夢というよりも、とにかく自分自身と向き合っていく話だったことが、私自身も興味をひかれたし、伝えたいと思った部分」だと強調した。
続けて呉監督は「例えば、私自身が在日韓国人だったりするように、少数派である人はたくさんいる。そして少数派に属していなかったとしても、親への様々な気持ちを持っている人たちが普遍的に見られるお話にできるんじゃないかなと考えていました。だから、ろう者やコーダを描くだけでなく、普遍的なことだけを描くのでもなく、その両方を大事にしたかった」と力を込めて語った。