テレビ番組「堂本剛のココロ見」を書籍化した「ココロのはなし」発売時の2014年、堂本剛にインタビューをした。これまで様々な人に話を訊いてきたが、彼はとりわけ印象に残っている一人だ。
同書は刀匠や桜守、登山家ら独特の世界を独自に極めた賢人6人と堂本の対話を収めたものだが、その際の心づもりの話題になった時、「緊張するのは相手に失礼」という名言が堂本から飛びだし、目から鱗だった。
私は長年インタビュアーとして仕事をしてきて、なぜ自分が毎回緊張するかと言えば「相手に自分の緊張を悟られないようにする」からだと無意識に感じていた。つまり緊張をカムフラージュしようとするあまり、緊張していた。
堂本自身、人見知りで内向的な性格だからこそ、「相手に緊張させないため、自分も緊張しないようにする」と語り、これこそ対話において最も肝要なことではないかと感じ入った。私にとって堂本にインタビューすることこそ、賢人との対話だった。
唯一無二のアイドルであり、オリジナリティあふれるミュージシャンであり、特別な吸引力を放つバラエティタレントであり、ほかにも様々な領域にその表現才能を発揮している「堂本剛」を言語化するなど、そもそも無理な話だ。だが、彼が映像芝居の場に立つ時に派生させる大気について考えてみたい。
「たしなみ」を駆使し、ティーンエイジャーにして老成した風格を纏う
途中離脱した時期があったとはいえ、堂本はそもそも子役出身の俳優であり、アイドルとしてのキャリア以前に演技があった。彼の芝居を見ていると「たしなみ」という日本語が想起される。堂本は、その豊潤な芸歴を参照するまでもなく、芝居をたしなんできたのだ。そうして芸事を心得てきた。若い頃から、落ち着いた風情があった。若者を体現していても、沈思黙考が感じ取れた。
10代の頃は、鋭い目つきをすることもあった。しかしその鋭さは、相手を突き刺すための攻撃ではなく、己の未熟さ(あくまでも演じるキャラクターのいたらなさのことである)を照射するための眼光として存在していた。内省にティーンエイジャーならではの真摯さを書き加える堂本の手つきにはすでに老成した風格があり、多くの少年青年たちとはまるで違っていた。
若者らしさ、と大人たちが決めつける時、そこには愚かしいほどの真っ直ぐさや、世の中への反抗的な態度、あるいは青春期特有のやるせない脱力模様といったものへの侮蔑と憧れが綯い交ぜになっている。ほとんどの若年俳優たちは、いまも昔もこうした決めつけのような定型の要請に応えているが、堂本は「若者らしい若者」に収まる(それは諦めることに近い)ことがなかった。未成年もまた考え続けているし、わかりやすい生命線とは逆のベクトルに向かうことだってあるのだということを黙って体現し続けた。彼流の「たしなみ」を駆使して。
膨大なドラマ作品に較べれば映画はあまりに少ないと言わざるを得ないが、近作と言っていい『銀魂』(17)で彼がクリエイトした“高杉晋助”には、堂本ならではのカリスマがあり、オーラがあり、孤高があった。基本的にコメディテイストの作品だが、高杉晋助が画面に登場するとまるで違った風が吹いた。岩のような違和は健在だった。