『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』21世紀のアメリカ映画を背負うジェームズ・マンゴールド監督、その深層にある“作家性”【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
――『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』では他の人気アーティストのキャリアを描いた映画にあるような、ヒットチャートや雑誌の表紙のインサートや海外ツアーのような成功の象徴となるような史実の描写がほとんどありません。そこにかなり意図的なものを感じたのですが。
マンゴールド「そう、そんなことはどうでもいいんです。ヒットチャートのような数字は本当に重要じゃないんです。私がこの作品で焦点を当てたのは、それぞれのキャラクターたちの内面をいかに観客に感じてもらえるかということでした。当時の音楽ファンは毎週ビルボード誌を読んでいたわけではなく、激動する現実世界の中で自分自身の人生を生きていて、その人生の中で音楽に触れていたんです。私は、現代の観客にもあの時代の空間の中で生きているような気持ちになってほしいと思って、この作品を作りました。自分自身のことを考えても、この作品の興行収入がどれくらいなのかも、映画会社にどれくらいの収益が出ているのかも分かりません。そう言うのがクールだと思って言っているのではなく、本当に知らないんですよ(笑)。アーティストたちの多くは、そういったことを気にしながら生きてはいないんです」
「私が興味があるのは、天賦の才に恵まれた人物と、それ以外の人々との関係です」(マンゴールド)
――ちなみに私は毎週、ウェブメディアで興行収入についての記事を書いているんですが(苦笑)。
マンゴールド「そういう仕事の重要性も理解できますよ。気を悪くさせたならすみません(笑)」
――いえいえ(笑)。では、アワードについてはどうでしょうか? ちょうどこの時期、毎週のように各映画賞の授賞式があって、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』はアカデミー賞でも8部門にノミネートされてます。19年前、あなたの撮った『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でジューン・カーターを演じたリース・ウィザースプーンが主演女優賞を総なめにしたように、実話に基づいた作品や実在の人物を演じた役者はアワードで評価されやすいという傾向がありますよね。
マンゴールド「そういうことも考えたことがないですね。映画を作る際に、考えなくてはいけないことは他に山のようにあるので」
――それはわかります(笑)。
マンゴールド「あなたが言うように、アワードにそのような傾向があるという点には同意します。でも、役者の演技について言うなら、それは当たり前すぎることかもしれませんね。なぜなら、実在の人物を演じた役の場合、投票者や観客はその実在の人物と役者の演技を簡単に比較できるからです。また、役者がその役を演じるためにどれだけ変貌したかについても、それまでのその役者の仕事という比較の対象があるのでわかりやすい。でも、そういうことを監督や役者が考えるのはあまり健全ではないですね。それに、歴史的な人物や出来事を題材にした映画という意味では、『市民ケーン』だって『アラビアのロレンス』だって本質的には伝記映画と言えるわけです」
――そもそも、映画史においてもメインストリームにあるものだと。確かに、おっしゃる通りですね。
マンゴールド「ナポレオンを主役にしたとしても、ジョージ6世を主役にしたとしても、結局のところ映画はストーリーテラーの仕事なのです。ストーリーテラーは自分たちが生きているこの世界を見つめ、それを基に物語を語ります。自分の人生に起こった体験を題材にして個人的な映画を作る映画監督たちもいますが、それもまたその監督自身の“実話”をもとにした物語なのです」
――そういう意味では、あなたは個人的な映画を作る監督とは最も遠いところにいる監督の一人であるように思えます。日本では、そういう監督を“職人監督”と呼んだりもするのですが。
マンゴールド「いや、私にとってこれまでのすべての映画が個人的な映画です。ただ、それを明白なものとしては作っていないだけです。まあ、アメリカに住む61歳の映画監督としての退屈なストーリーを映画で語ろうと思えば語ることもできますが(笑)」
――(笑)。
マンゴールド「私の個人的な関心や好奇心は、間違いなく私がこれまで選んできた映画の中に表れています。『フォードvsフェラーリ』のキャラクターたちと自分自身の人生には強い共通点を感じます。映画を作るのは簡単なことではなく、どこかから資金を調達しなければならないし、多くの人から『本当にうまくいくのか?』と疑問を持たれている中で自分の仕事に集中しなくてはいけません」
――まさに、あの作品でマット・デイモンが演じたキャロル・シェルビーですね。
マンゴールド「ボブ・ディランに対しても私なりに共感している部分があります。私は生涯、同じジャンルの映画だけを作り続けるつもりはありません。また、自分が作る映画が、誰もが理解できるものだとも思っていません。私がなぜその作品を作りたいと思ったのか、すべての人にそれを分かってもらえるとも限らないでしょう」
――あなたは作品の“現代性”についてどのように考えているのでしょうか?例えば『フォードvsフェラーリ』は、いまおっしゃった通り映画作りにも共通する普遍的な“個人と組織”についての深い洞察に満ちた作品であると同時に、1960年代を舞台にしながらも極めて現代的な主題を持った作品だと自分は思いました。そういう意味で、『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』が現代社会に生きる我々に語りかけるものがあるとしたら、それはどういうところだと思いますか?
マンゴールド「確かに、私の映画は過去の時代を舞台にすることが多いですが、物語の“現代性”についてもしっかりと考えています。ただ、私はそれを“特定の瞬間”の物語としては捉えていないのです。私がいつも考えているのは、物語が文化に対してどのように関連しているかについてです。例えば、あなたが挙げた『フォードvsフェラーリ』についてですが、異端児と呼ばれるような独自の個性を持った人物が、企業的な考え方という障壁に直面しながら、そこでなにか新しいことを成し遂げようとする闘いは、少なくとも100年以上にわたって続いてきたこの世界の現実です」
――そして、それはボブ・ディランにも通じる話ですよね。
マンゴールド「ボブ・ディランに限らず、それは音楽の世界でもよくあることです。アーティストが音楽のスタイルを変えるとそれにファンが反発したり、異なる音楽ジャンルの間で対立のようなものが生じることは、昔から存在してきた現象です。少なくとも私は、物語を語るには、その物語の表面的な具体性を超える理由が必要だと思っています。もちろん、ディランはとても魅力的な人物ですし、彼の音楽も大好きです。それは彼のレコードを聴く理由としては十分なものでしょう。でも、それだけでは彼の映画を作る理由としては十分ではないのです。映画を作るには、その物語の中になにか“超越的なもの”を見つける必要があります。なぜ人々は彼のことを、自由奔放で、傲慢で、遠回しで、人を操り、謎めいている存在だと感じるのでしょうか?私が興味があるのは、天賦の才に恵まれた人物と、それ以外の人々との関係です。私はこれまで何度も映画の中でこのテーマを掘り下げてきました。
例えば、『フォードvsフェラーリ』のクリスチャン・ベールが演じたケン・マイルズもそうです。彼は社会の中でうまく適応できません。車を作り、レースをすることは愛していますが、スポンサーや自動車会社との関係をうまく処理することはできません。同様に、ディランは卓越したソングライターであり、おそらく史上最高の音楽家の一人でしょう。しかし、それは彼が“音楽スター”として優れていることを意味するわけではありません。彼の才能は、観客からの称賛にどう対処すべきか、レコード会社の要求にどう応えるべきかに発揮されるわけではないのです」