ジャッキー映画名物“NGシーン”の誕生秘話も!数々のヒット作を手掛けた立役者に直撃
世界的アクションスターとして世代を超えて愛される名優ジャッキー・チェンが、テロによって娘を殺されその復讐にすべてをかける父親を演じた最新作『ザ・フォーリナー/復讐者』(公開中)。これまでのイメージを覆す熱演を魅せたジャッキーに「ファンの皆さんはどんな反応をしてくれるのか、非常に楽しみです」と語るのは、本作の宣伝を務めた株式会社マンハッタンピープルの代表取締役社長・菅野陽介。ジャッキー映画と共に歩んできた自身の40年間を振り返ってもらった。
菅野は80年代のジャッキーブームを牽引した配給会社の東宝東和株式会社に入社後、80年9月に日本公開された『バトルクリーク・ブロー』の宣伝に参加。ジャッキー映画を日本に広めた第一人者としてファンの間で語り継がれ、ファンクラブ日本支社長も務めた東宝東和の名物宣伝マン、飯田格のもとで、数々の人気作を世に送りだしてきた。「はじめにジャッキーの作品を日本に紹介してコアファンを作ったのは東映さんでした。『酔拳』や『蛇拳』といったロー・ウェイ監督のプロダクションが製作していた時代からの作品です。その後『ヤングマスター』以降のゴールデン・ハーベスト製作作品から東宝東和も参画することになりました」。
その上で、菅野をはじめ当時の東宝東和の宣伝マンは、それまでのジャッキー映画の宣伝方針を一新する。「一番わかりやすいところで言えば、東映さんの時は漢字のタイトルでしたが、東宝東和ではカタカナのタイトルにしたことです。“明るく楽しいジャッキー・チェン”というテーマを掲げ、客層のターゲットも従来の大人の男性から、ファミリー層や女性まで拡げていくことを決めました」と振り返る。
確かに80年代以降にカタカナタイトルが取り入れられたことによって、それまでの作品にあった“アジア映画”というイメージから “洋画”というイメージに変わった。それと同時に作品の持つ雰囲気にも、より親しみやすさが生まれた印象だ。さらに、作品が公開されるたびにジャッキーに来日してもらい、毎回必ずテレビ東京系列の朝の番組「おはようスタジオ」へゲスト出演させることで、子どもたちに向けた宣伝の足場を固めていったという。
そんな菅野、巷ではジャッキー映画の名物“NGシーン”を生みだした人物としても知られている。その話題について訊ねてみると「いやいや、それはみんなでやっていたことです」と謙虚な姿勢で語る。「29歳か30歳の時に、『プロジェクトA』の宣伝プロデューサーになったんです。それまでは30歳半ばくらいのマネージャークラスでないと候補にもならないポジションだったので、うれしくて頑張ろうと思いました」と、当時の思い出を振り返りながら、NGシーン誕生の裏話を教えてくれた。
「予告編やコピーを考えるために本編を観ていたら、“時計台落ち”シーンの落ち方が違う。これはどう考えても2パターン使っていると気が付いて、もっといくつもあるんじゃないかと思い、本国に問い合わせてみました」と、はじめは本編に組み込むのではなく、宣伝用素材の一つとして取り寄せる予定だったという。「でも箱いっぱいに届いたNGシーンは、どれもラッシュ用で音がなく、宣伝素材としては使いづらい。そこで、これをどうするかと考えた時に、エンディングにNGシーンとして付ければおもしろいのではという話に。それがラストシーンのお楽しみとして評判になったんですよ」。
その後も20世紀FOX映画ジャパン(当時)や角川映画株式会社を渡り歩き、歴史的大ヒット作『タイタニック』(97)や「スター・ウォーズ」シリーズのプリクエル・トリロジーなどの日本公開に携わってきた。「どれも本当に巡り合わせのようなものです」と微笑む彼に、この40年で一番思い出深い作品は?と訊くと「やっぱり『プロジェクトA』だね」と即答。「初めての宣伝プロデューサーで、手応えも含めて毎日がすごく楽しい仕事だった。それ以降は、ヒットさせなきゃダメというプレッシャーが多くてね…(笑)」。
この数年で映画市場は激しい変化を迎えている。シネコンが主流となり、デジタル化が進み、そしていまは配信サービスが台頭。あらゆる変化が生まれた平成の約30年間を、宣伝の現場で駆け抜けてきた菅野だが、この現状への抵抗感はまったくないそうだ。「以前、ラスベガスでのアメリカの興行者を集めた講演で、ジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグが『いずれ今のような映画興行はなくなる』という話をしていた。それ以来生き残りと言う意味でそうなるのだと思っていたけれど、正直なところ、その時思っていたよりもペースは遅い」と語る。
映画興行の一つの過渡期だった90年代後半、シネコンの増加によって海外のような“映画を観る習慣”が根付き、「見に行くことだけを決めて、行ってから映画を選ぶ」スタイルも生まれて、今の日本の映画ビジネス全体が大きく変わると期待されていたという。しかし、結果として日本の観客の“決まった作品を観にいく”というスタイルは変わらなかったことを一つの例とし、現在の配信と興行の関係性に話を戻した菅野は「そういった意味で、この次が見えてこないので興行には不安しかない。でも“映画”そのものにはまったく不安はない。たとえ今の興行スタイルがなくなっても、ライブ、イベント的な映画は絶対になくならないと思います」と断言。
最後に菅野は、映画宣伝という仕事の意義について語る。「映画にとって宣伝はプラットフォーム。作品が完成しても、どんな想いで作っても、それだけでは誰も知らない。宣伝することで商品価値が伝わってくるので、宣伝はつねに本編の延長線上にある。でも映画の宣伝は裏方だからなかなか見えない。だからこそコミュニケーション能力が必要とされるすばらしい仕事だと思うし、この業界を経験する人たちが増えていけば、もっといい予告編やポスターが作れたり、映画の環境を変えていけるはず。志がある人はぜひ我が社に来ていただきたいですね(笑)」と満面の笑みを浮かべた。
取材・文/久保田 和馬