暗殺の森|MOVIE WALKER PRESS
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暗殺の森

1972年9月2日公開,115分
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一九二八年から四三年までの、ローマとパリにおけるファシズムがおこってから崩壊するまでの物語。製作はマウリツィオ・ロディ・フェ、監督・脚本はベルナルド・ベルトルッチ、原作はアルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」。撮影はヴィットリオ・ストラーロ、音楽はジョルジュ・ドルリューが各々担当。出演はジャン・ルイ・トランティニャン、ステファニア・サンドレッリ、ドミニク・サンダ、ピエール・クレマンティなど。2015年10月31日よりデジタルリマスター版を限定公開。

ストーリー

※結末の記載を含むものもあります。

どう見てもマルチェロ(J・L・トランティニャン)は若くて健康な青年だったが、十三歳のとき体験した事件が深く心につきささり、今もってぬぐいさることができない。あれは学校の帰り道のときだった。友だちにいじめられているところを軍服姿のリノ(P・クレマンチー)が助けてくれ、家に連れていかれた。リノはかつて牧師であり、その自分が少年に慾望を抱いたことで傷つき、マルチェロに拳銃を渡し、撃つように頼んだ。マルチェロは引金をひいてその場から逃げた。大人になったマルチェロは、殺人狂かもしれない自分の血筋から逃れるために、熱狂的なファシストになっていった。大学で哲学の講師をしている彼は、大佐から近く内務省に出頭するよう命じられた。そして、彼の恩師であるカドリ(D・タラシオ)について調査せよとの命令が下ったとき、彼は婚約者のジュリア(S・サンドレッリ)との新婚旅行と、任務を同時にやりたいと提案した。パリに亡命しているカドリを訪ねるにはうってつけの口実だ。政府のエージェントとしてマニャニエーロ・(G・マスキン)が同行することになった。やがて命令が変更され、カドリから情報を得るだけでなく、彼の抹殺に手をかすよう要請された。パリに着いた新婚夫婦はカドリの家へ招待され、彼が最近婚約したアンナ(D・サンダ)に紹介された。数日後、ふた組の夫婦がレストランで会ったが、片隅にはマニャニエーロが隠れていた。アンナがサボイアにある彼女の家へ行こうと誘ったが、マルチェロと二人きりになりたかったジュリアが断わると、明日ベルサイユに案内しようといった。再び尻ごみするジュリアを、マルチェロが注意し、結局その夜はサボイアの家に泊ることになった。夕食の後、四人はダンス・ホールへ行った。マルチェロは、後をつけてきたマニャニエーロに、明日はサボイアの家からカドリが車で一人ででるだろうと教えた。ジュリアとアンナをベルサイユに連れて行けば、カドリは一人になるはずだった。翌朝早く、マニャニエーロが電話でカドリがでたことを知らせてきた。しかしその車にはアンナも乗っていた。二人が乗った車をマルチェロとマニャニエーロの車が追った。そしてマルチェロの目の前で、アンナもカドリの道連れになって殺された。数年後、マルチェロはジュリアと小さな娘の三人でローマのアパートで暮していた。一九四三年七月二五日、ラジオがファシズムの崩壊を報じた。盲目の友人イタロから電話があり、町にいっしょにいってその状況を説明してくれという。彼はイタロを連れて大混乱の夜の町を歩き、曲り角へきたとき、自分の目を疑った。少年の日の思い出が、奔流のように彼の頭の中をかけぬけた。そこには自分が射殺した筈のリノが生きているではないか。すべてが虚構だった。彼自身をふくめた一切の過去がくずれ去っていった。

作品データ

原題
Il Conformista
製作年
1970年
製作国
イタリア
配給
パラマウント=CIC
上映時間
115分

[c]キネマ旬報社

映画レビュー

5.0
  • rikoriko2255

    やまひで

    5.0
    2009/3/13

     部屋の窓から縦書きの、薄赤色のネオン・サインが見える。「La vie est à nous.」(「人生は我等のもの」とでも訳そうか)と読みにくいが書いてあり、この場所がフランスであることが分かる。と、画面は突然黒地となる。ネオン・サインがまた明るくなると、同じ場面がちらりと示される。またネオンが点滅して明るくなると、今度はカメラの視点が変わっていて、男が左手の指を両目に置いてベッドに座っているシーンが映し出される。男は疲れているようである。同時にクレジットが出て、「Jean-Louis Trintignant」。再度ネオンが点滅してネオン・サインの大写しが出て、再度カメラがトランティニャンを映す。この時に題字が出てきて、「Il conformista」。これで観衆はトランティニャンが「イル・コンフォルミスタ」(「大勢順応主義者」)であることを理解する。素晴らしい映画の出だしである。  恐らくは眠れない夜を過ごしたのであろう、トランティニャンがいる部屋が画面の左方から次第に明るくなる。ネオン・サインが出す薄赤色に朝焼けの黄金色が混入してくる。今はもう早朝である。と、突然電話がトランティニャンに掛かってくる。よく文脈が呑み込めないが、ある女が意外にもある男といっしょに出かけたという。少々緊張したトランティニャンは、ベットから立ち上がり、既に着たままだったワイシャツとチョッキの上に上着を、更にその上にコートを着る。鏡台の上に置いた皮製の大きな化粧品ポーチの下底から短銃を取り出す。そしてベットの上においてあったソフト帽を頭の上に乗せる。カメラの視点が少し上がって、帽子の下には実は丸裸でうつ伏せに寝ている女の尻があったの観衆は知るが、トランティニャンはその目をはばかるかのようにベットの掛け布をそれまで彼の隣りに寝ていた女の尻の上に掛けてやる。大勢順応主義者トランティニャンは、ブルジョワジー道徳をも体現する人間でもあったのである。普通、数分の出だしのシークエンスで、これだけ主人公の性格を端的に描けるものであろうか。  こうして、本作のストーリーの現在時点とで言える状況が提示され、トランティニャン演ずるところのイタリア人マルチェッルロ・クレリチは、ホテル・パレ・ドルセイを出て、ファシズム時代のイタリア内務省の政治秘密警察の同僚の運転する車に乗り込む。彼等はある地点へと急ぐのであった。それは、暗殺が決行される日1938年10月15日であった。この車中、マルチェッルロは回想に耽り、彼のこれまでの生い立ちが時間的序列を無視して、謂わばJ.ジョイス風の意識の流れの中で回想形式で語られていく。回想の中に更に回想が入るという、原作よりも絶妙のストーリーの語り口を以ってである。  さて、大学の哲学講師であるインテリのマルチェッルロと右からの集団主義としてのファシズモとの関係である。何故マルチェッルロは、ファシストになり、自分の大学時代の恩師で、アンティ・ファシストのクァドリ教授の、残忍で卑劣な暗殺に片棒を担がなければならなかったか。イタリアでのファシズモ成立の問題を個人の心理的性向の問題としてこれを矮小化してはいないかという疑問が残るにしても、ドイツのナチズムの「被害者」にいつの間にかすり変わってしまったイタリアに於いて、その歴史的責任を問題化したという点では本作品の意義は実に高いと思われる。1917年に13歳の自分が犯した(と思っていた)殺人が契機となり、また、廃頽したプルジョワ家庭を背景として、「普通・平凡・中庸」であることに異常までに自分に課した「異端児」の、装った大勢順応主義がマルチェッルロをして当時の大勢としての大衆運動ファシズモに近づけさせたのであった。悲劇の主人公だと一人合点している本人の演じる悲喜劇が効いているのも一言に値するだろう。  名カメラマンV.ストラーロが創造した色彩造形、特にローマからパリーに向かう列車内の卓越なシークエンス、そして数々のカラー作品でありながら、陰影が大きな役割を演ずるシーン、本作は何回見ても何か新しいものを発見をするシネアスト必見の古典である。

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