吉田恵輔、問答無用の傑作『BLUE/ブルー』誕生。映画を撮り続ける上で最も大切な“才能”について【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
宇野「『BLUE/ブルー』で驚かされたのは、本当に物語が終盤になるまで、誰が主人公なのかがまったくわからないことでした。当然、クレジットでは松山ケンイチさんが一番最初で、ポスターなどでも最も大きくフィーチャーされていることは前情報として入っていたわけですが、松山ケンイチさんの役と対になる東出昌大さんの役だけでなく、柄本時生さんの役も含め、その3人がほぼ均等に描かれていくという」
吉田「ホンの書き方としては、3人のシーンがほぼまったく同じになるように書いています」
宇野「ですよね。吉田監督の作品は、ストーリーテリングにおいて毎回のようにトリッキーなことをやってきていて、今回もそういう意味ではかなりトリッキーなストーリーテリングだと思うんですけど、それがよりさりげなくなってるところがすごくかっこいいなって」
吉田「そうですね。『トキワ荘の青春』(1996年、市川準監督作)ってあったじゃないですか。あの作品が好きで。ああいう映画を撮りたいなと思ったところからスタートしたんですよ。『トキワ荘みたいなボクシングジムがあったとしたら?』みたいな。ジムに入ってくる人がいて、ジムからいなくなる人もいてっていう。だから、群像劇的な作品というのは最初から考えていたことでした」
宇野「なるほど。ただ、群像劇といってもキャラクターに強弱はあるものだと思うんですけど、今作は3人全員が主人公のような構成になっていて。脚本の構造そのものをいじること、場合によっては壊すことへの吉田監督の執着というのは、なにが理由なんですか?」
吉田「なんでしょうね。ホンを書いてる時は、常に大喜利をしているような感覚があるんですよね。ちゃんとした構成で真面目に書くことはできるんですよ。でも、『普通に書いたらこうなるわけだけど、そうじゃないとしたら?』っていう大喜利を毎回振られてるような気持ちになって。それに、通常と違うアプローチだと、撮ってる時が楽しいんですよ」
宇野「ああ、“書いてて楽しい”というよりも、むしろ“撮ってて楽しい”?」
吉田「そう。だから、撮ってて楽しくなるためにちょっと違ったアプローチで脚本を書いてるみたいな感覚ですよね」
宇野「練りに練った構成の脚本って、場合によっては現場の自由度を狭めることもあるんじゃないかと思うんですけど」
吉田「そこまで練りに練ってる自覚はあんまりないんですよ(笑)」
宇野「でも、いまでこそ“ここから視点を変えてもう一度”みたいな作品って、海外のドラマシリーズも含めてわりと増えてきましたけど、やっぱり14年前に『机のなかみ』を観た時はものすごい衝撃でしたよ」
吉田「あの時も、考え抜いてああいう構成にしたって感覚はあまりないんですよね。俺は下心がものすごくある女の子が大好きで、そういう女の子になってみたいっていう願望が非常に強いんです(笑)。それで『もし俺が女の子だったら、そうはなんないから!』みたいな視点を脚本に入れようとすると、どうしても視点が2つになっちゃって。でも、男性からの目線と女性からの目線を交互に描くのって技術的に難しくて、だったもう『前半は男! 後半は女!』みたいな感覚で切っちゃおうって。わりとそういう単純な思考だったんですよ」
宇野「でも、そういうトリッキーな構造の脚本って、そのアイデアだけが浮き上がって、物語としては散らかしっぱなしになったり、破綻したりするケースが多いじゃないですか。吉田監督の一番すごいところは、絶対に最後には全部まとめあげてさらに物語のカタルシスまでもっていく、異様なまでの“まとめ力”だと思っていて」
吉田「俺、基本的には変わった構造の作品を作ろうとは思ってないんですよ。順番としては、最初にこの長さで撮らなきゃというのがあって、そこに描きたいキャラクターや物語を突っ込んだ時に、たまたま構造が変わってきちゃうだけであって、全部は結果論なんですよ。逆に“物語の構造をおもしろくしよう”ってところから企画を考えちゃうと破綻すると思うんですよね」
宇野「なるほど。自分の言う吉田作品の“まとめ力”っていうのは、やっぱり終盤に入ってから次から次へと畳み掛けられていく快感なんですよね。それは今回の『BLUE/ブルー』も同様で、終盤にきてようやく全部のエピソードが有機的に繋がって、『あ、これは松山ケンイチの役が中心にいる映画なんだ』っていうことがわかる。物語のエピローグ的な部分も、そのもっと前の段階で幕を下ろして映画としてカッコつけることもできると思うんですけど、わりとしっかり語っていくじゃないですか。その、絶対に話を散らかしっぱなしにしないっていう安心感がすごくあって」
吉田「でも、最後にシャドーボクシングで終わるっていうのは、撮った時には『これで伝わるかな?』という不安感はありましたよ。しかも、正面じゃなくて後ろ姿だし。でも、そこで説得力が生まれるかどうかっていうのは、松山さんがこの作品のなかで演じてきたことの積み重ねで。そういう意味での松山さんへの信頼感はあったんで、あとはそれを俺がうまく撮れるかどうかということで」
宇野「なるほど。多分、映画をよく観る観客に向けて作ってるだけだったら、あの終わり方に不安を覚えることはないと思うんですよ。これは以前に吉田監督もインタビューで語っていたことですけど、特に日本では映画をよく観ている人の作品の理解度と、そうじゃない人の理解度のギャップが極端にある。作品の焦点をそのどちらに合わせかるによって、映画の撮り方も変わってきて、そこを割り切ってどちらかに振り切っている監督もいると思うんですけど、吉田監督の作品は、いわゆる“普段あまり映画を観ない観客”も諦めていないですよね?」
吉田「そうですね」
宇野「でも、そのさじ加減ってすごく難しいんじゃないかと思うんですね。あんまりわかりやすくしすぎると、映画好きからは見くびられるみたいな。そこでの葛藤もあったりするんじゃないですか?」
吉田「葛藤があるというよりは、まず根本的に映画が好きなので、視点は常にそっちの方ではあるんですけど。ただ、映画を観始めた頃は『スター・ウォーズ』みたいなメジャー映画が大好きで、その一方で出自としてはインディーズでやってる塚本晋也監督の現場で育てられてきたということがあって。だから、メジャーとインディーズみたいなことで言うと、俺は最初からその中間に属しているみたいな感覚があるんですよ」
宇野「インディーズ時代の『なま夏』の時点で、塚本監督の作風とはまったく違いました」
吉田「そう。そういう意味で、俺は運がいいというか、最初から無理してやってこなかったから、そうすると、どっちにもいい顔ができるんですよ(笑)。いかにも映画祭向きのミニシアター系の作品が心の底から好きで、そういう作品を自分でも撮りたいってなると、なかなかお金が集まんないし。メジャーだとメジャーで、成功すれば観客はいっぱい入るかもしれないけど、そういう作品における監督の地位だったり発言力だったりって、決して高くなかったりするじゃないですか」
宇野「そうですね(苦笑)」
吉田「それでいうと、自分はその中間でいいかなって思うし、作品的にもその中間にあるような映画が本当に好きなんですよ」
宇野「無理をしないというか、もともと監督の資質として無理をする必要がなかったということですね」
吉田「そうそう。無理はまったくしてないですね」