2022年の日本社会の“本当の姿”を暴いた『夜を走る』。佐向大監督はいかにしてこの傑作をものにしたのか?【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
宇野「死体であったり、『教誨師』の場合は死刑であったり、“死”って動かしがたい重い事実としてそこにあるわけじゃないですか。その周りで、核心に触れるのではなく、ただぐるぐる回っているところに物語のおもしろさを感じているということでしょうか?」
佐向「はい。物事の核心のようなものがあるにもかかわらず、そこには触れず、日常生活を送っている人たちというのが、自分の世界に対するイメージなのかもしれない」
宇野「でも、我々の人生も大体そういうものですよね。締め切りを超えた原稿や出さなきゃいけない請求書をほったらかしにして、ベランダの掃除をしてたりする(笑)」
佐向「そうそう。まさにそういうことを日々感じていて。 とりあえずそれで日々は過ごせるけれど、それでだんだんいびつなことになっていったり、追々大惨事に発展したりしていく。そういう危機感のようなものが常にあるんですよね」
宇野「そういう意味では、『まだ楽園』の主人公は20代でしたけど、『夜を走る』では40歳前後で、監督自身は50代を迎えて、より後回しにしていることの後ろめたさや深刻さは増してきているということですよね」
佐向「そうなんですよ(笑)。まだ自分にはなにも出来ていない、だからこそこれを撮らなきゃっていう、そういう使命感みたいなものが生まれてきたのかもしれないですね。『教誨師』以前の自分は脚本を依頼されることが多くて、監督する機会がそんなに多いわけではなかったこともあって。僕のなかで、脚本の仕事とは別に、自分が監督する時はどんな映画を撮りたいのかっていう自問自答は常にありました」
宇野「『夜を走る』を観て自分が最初に連想したのは『ブレイキング・バッド』だったんですよ。『ブレイキング・バッド』のファーストシーズンの最初のほうにも同じく主人公とその相棒が死体を車に積んで走る展開があって。でも、その後に『まだ楽園』を初めて見て『あ、「ブレイキング・バッド」の前からやってたんだ』って」
佐向「『ブレイキング・バッド』、実は見てないんですよね」
宇野「それは本当に意外です(笑)。『ブレイキング・バッド』の序盤って、重要なことには目を背け続けている男2人が、ボロボロの車で徘徊しながら、目の前の問題だけを処理し続けるような話なんですけど、それってまさに『夜を走る』じゃないですか」
佐向「そうなんですね。アメリカのドラマは、『ビバリーヒルズ青春白書』以降観てないかもしれない」
宇野「それはやばい(笑)」
佐向「あ、あれも見てました。ジャド・アパトーの『フリークス学園』」
宇野「コメディ作品ばかりだ」
佐向「ジャド・アパトーやグレッグ・モットーラが大好きなんですよ。あと、ファレリー兄弟とか。『グリーンブック』よりも前作の『帰ってきたMr.ダマー バカMAX!』のほうが断然好きですし」
宇野「ああ、でも、よくよく考えてみると『夜を走る』にもコメディの要素は確かにありますね」
佐向「というか、実はコメディのつもりで作ったんですよ」
宇野「そうなんですか(笑)」
佐向「お客さんから笑いがいっぱい起きてほしかったのに、試写では全然笑いが起きてないって言われて、それにショックを受けて…」
宇野「いや、物語がどこに向かってるのか最後までわからないので、可笑しくても笑っていいのかどうか判断できないような作品なんですよ」
佐向「そうですよね。自分は普段、映画の宣伝の仕事もしていることもあって、『この作品を宣伝するのは大変だろうなあ』って思います(笑)」
宇野「エンタテインメント作品かアート系作品かと言われたら、実は佐向監督はエンタテインメント作品寄りの趣向を持っているように思うんですけど、シネフィル的な層に受けそうな感じもあって。まあ、本来その2つは対立するようなものではないのですが、なかなか難しいですよね」
佐向「もちろんエンタテインメント作品もやりたいと思ってるんですけど、現実的なことをいうと、やっぱり手掛ける作品の規模やテーマということでは、どちらかというとシネフィルっぽいところにいるのかなとは思ってます。別に意識してシネフィル的な人に受けようと思って作ってるわけではないんですけど、自分がおもしろいと思うものを作っていたら自然とこうなるというか」