“ライバル”濱口竜介監督も激賞する『わたしは最悪。』、ヨアキム・トリアー監督が自虐的タイトルの理由を明かす
「ロマンチックな出会いを指す“ミート&キュート”という概念をひっくり返そうと思った」
邦題『わたしは最悪。』は原題の直訳に近いタイトル。このタイトルは、奔放なユリアに対する皮肉が含まれているようにも思える。「確かに皮肉が込められたタイトルですが、ノルウェーでは口にすることの多い言葉でもあります。社会が期待するものに対して自分は足りていないのでは?周囲の期待に応えられていない自分は失敗作なのでは?とか、ノルウェー人は割とネガティブな言葉を自分に使ったりします。でもこのニュアンスは日本人にも理解してもらえるのではないかと思います」と説明する。その理由については「ノルウェーにバイキング文化があるように、日本にはサムライ文化があります。鎧や甲冑で身を固めて偉大なことを成し遂げた人々を祖先としているわけですから、そんな先人たちの姿に比べると自分たちは…と自虐的になってしまうのも理解できますよね」とノルウェー人と日本人の意外なマインド共通項を挙げる。
バルコニーで一人煙草をくゆらすユリアの姿を捉えたファーストショットが実に印象的。思い悩んでいるのか、なにも考えていないのか。その横顔からはうかがい知ることができないが、どこか意味深。ストーリーが進んでいくと、冒頭ショットは物語の中盤に位置する、とある一コマであることがわかる。このふとした瞬間をオープニングに配置した意図とは?
「オスロは谷が多い街で、ファーストショットの舞台は丘の上にあるレストランです。バルコニーからはオスロの街全体を見下ろすことができます。自分の物語が始まっていないどこか浮遊しているユリアは、街を見下ろして自分の人生を漠然と考えている。そんな彼女の姿をじっくり映すことでユリアVSオスロ(世間)の構図を表すことができるのではないかと思いました」。
印象的といえば、ユリアが浮気相手アイヴィンと初めて出会い、距離を縮める場面も独特。性的なことをしなければ浮気にはならないとばかりに、2人は互いの脇汗を嗅いだり、噛みついたり、放尿を見せ合ったり、吐き出した煙草の煙を吸ったり。セクシャルになり過ぎず、あくまで無邪気に。2人の男女が惹かれ合うという表現としてはいささかいきすぎているようにも見えるが、もしギョッとしたらトリアー監督の作術にまんまとハマったことになる。
「ロマンチックコメディには“ミート&キュート”という言葉があります。2人だけに通じる官能的なものや、出会った瞬間に惹かれ合うような可愛い瞬間を指す言葉。そのロマンチックな出会いを指す“ミート&キュート”という概念をこの映画でひっくり返そうと思いました。これは前々からやってみたかったアイデアで、ユリアとアイヴィンの浮気をイジっている表現でもあります。フィルムメーカーとしては、人間が普段隠しているものや見せたくないものをあえて見せるという欲求があるのかもしれないけれど、ギョッとするような行為の裏に隠されたエモーショナルな感情やドラマを汲み取ってもらいたいです」と解説する。
意を決したユリアがアイヴィンと再会する場面は、2人以外の時間が止まる。周囲の人々が静止したなかでユリアは疾走。ロマンスを盛り上げる表現としては常套手段ともいえるが、ご時世柄の知られざる苦労もあった。「コロナ禍のせいで大勢のエキストラを集めての撮影がなかなかできず、2020年秋にやっと許可がおりました。たくさんの人を集めての大掛かりな撮影ができたので、撮影現場は喜びで溢れていました。シーンの意図としては、キャリアにおいても恋愛においても時間に追われて焦っていたユリアが“時”から初めて解放される場面です。撮影時の状況も含めて、とても美しい瞬間になったと思っています」と念願叶って実現したシークエンスだという。
ロマンス映画のヒロインのようになったユリアが得たその美しい瞬間。果たしてそれは未来永劫続くものなのだろうか。それとも?北欧から届けられた唯一無二のラブストーリーを日本の観客はどのように味わうのだろうか。
取材・文/石井隼人