「ぴあフィルムフェスティバル」荒木啓子ディレクターが語る、「PFFアワード」の信念と自主映画30年の変化
“映画の新しい才能の発見と育成”をテーマに掲げ、1977年にスタートした「ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」。今年で44回目を迎えるPFFは、世界でも珍しい自主映画のコンペティションとなる「PFFアワード」を軸に、国内外の映画監督にフォーカスした特集企画など、ほかの映画祭とは一線を画すラインナップで多くの映画ファンから親しまれ、映画監督を志す人々からは“映画監督への登竜門”として認知されてきた。
これまでこのPFFからプロの映画監督へと羽ばたいていった監督たちは数知れず。森田芳光監督や犬童一心監督、黒沢清監督、中島哲也監督、橋口亮輔監督、塚本晋也監督、佐藤信介監督、李相日監督、荻上直子監督。近年では長編商業デビュー作となった『PLAN 75』(22)で第95回アカデミー賞国際長編映画賞の日本代表に選出された早川千絵監督と、その一部を挙げるだけでも錚々たる顔ぶれが並んでいる。
そんなPFFのディレクターを1992年の第15回から務めてきた荒木啓子に、MOVIE WALKER PRESSは単独インタビューを敢行。映画を取り巻く環境はもとより、社会そのものが大きく変化したこの30年のPFFや自主映画界の変化と共に、現在開催中の「ぴあフィルムフェスティバル」の見どころについて語ってもらった。
「過去は未来のための反省材料でしかないので、それが終われば振り返りません」
「映画祭は可能性のある仕事です。映画監督になる道が見えづらい時代に、なんとかして道を見つけていこうとしている人たちがいます。その手助けができれば、と思ってディレクターを引き受けました」。荒木は前任者からディレクターの仕事を引き継いだ30年前の心情を振り返る。「国内だけでやっていても映画はどん詰まり状態。当時からとにかく積極的に海外に紹介していこうという大きな目標がありました」。
荒木のディレクター就任以降も、現在第一線で活躍する多くの映画人たちがPFFから巣立っていった。その30年分の思い出について訊こうとすると「残念ながら、私は過去のことには興味がないんです」と言う。「過去は未来のための反省材料でしかないので、それが終われば振り返りません。なにを反省して、未来に向けてなにが必要なのかということにしか興味がないんです」と、“発見”と“育成”に重きを置くPFFのテーマどおり、常に日本映画の未来について考えをめぐらせていた。
昔もいまも変わらず、PFFの要となっているのは「PFFアワード」だ。「PFFアワード」の審査には重要な決まりごとがある。荒木を含む18名のセレクション・メンバーが、すべての応募作品を手分けて、1作品につき最低4名、最初から最後まで1分1秒もらさずに観るという最初のセレクションだ。「去年までは3人でしたが、今年から4人に。そうすることで議論がすごく活発になります。1次審査で全作品を観ていくのに約2か月。次に4人がほかのメンバーに観てもらいたいと思った作品を全員で観ていくのに1か月以上ですね。そこから全員でのディスカッションが始まります」。こうした長期間にわたって意見を出し合い、入選作品が決定していく。
「とにかく“漏らさない”ということを大切にしています。なぜなら我々は、この自主映画の最初の観客になるからです。友だちでも親戚でもない他人の観客として、この映画をどう観るかについてまじめに語っていく。映画を一本完成させるのは大変なことです。応募してくれた人の何十倍も完成しなかった人がいて、完成しても応募しない人もいます。でも応募してくれた人たちは、それだけ多くの人に作品を観てほしいという想いを持っているはず。だからこそ真剣に向き合い、リアクションをします。ここにどれだけ丁寧になれるかが、PFFという映画祭のポイントだと思っています」。
そうしてセレクション・メンバーたちが1作品1作品に書いたコメントは、作り手である監督たちにフィードバックされる。「毎年なるべく全作品に送ることを目標にして30年やってきました。そして今年、ようやく全作品に送ることができました。30年間かけて到達できたことです」。