カリスマと文学性を持つKing Gnu井口理、主演作『ひとりぼっちじゃない』に見る“俳優”としてのポテンシャル
『ひとりぼっちじゃない』における『劇場』とは異なるカリスマ
行定が初めてプロデュースを手掛けた、伊藤ちひろの監督デビュー作『ひとりぼっちじゃない』(公開中)で、井口はいきなり主演者として銀幕に姿を現した。『劇場』の時とはまるで違う。だが、これも一種のカリスマではある。
世界の誰からも認められてはいないが、あの人物は“自分が自分でいること”にいっさい、疑問を抱いていない。好きな女性に翻弄されたり、謎だらけの運命アクシデントに焦燥感を煽られたりはするが、自己を喪失することは決してない。本来であれば、コンプレックスの塊のように描かれ、そのコンプレックスを事細かに体現する“人間臭さ”を求められるだろう。しかし、『ひとりぼっちじゃない』は、そんな陳腐な作品ではなかった。一見、凡庸な人物に扮しているかに思える井口もまた、人間の非凡極まりない深層心理を表現している。
ふてぶてしいのに透明。澄んでいるのにおぞましい。そのような主人公を、狂気をいっさい排した、無害な、そして無菌な男性像として構築している。それが結果的に、匿名のカリスマ性を可視化することになった。匿名のカリスマは、実に現代的なモチーフと言えるだろう。
SNS時代を生きるススメの心情を精緻なグラデーションで表現
『劇場』におけるカリスマは、ある意味、普通のカリスマだった。なぜなら彼には演劇の才能があり、演劇の専門家にも、観客にも、大いなる支持を得ている。そのような戯曲家/演出家がカリスマとして屹立しているのは、ごく当たり前のことである。『ひとりぼっちじゃない』の無名のカリスマは、SNSの時代に増殖している“根拠なき自信”を有した者たちの一人、とも言える。では、ここでの自信とはなにか。自分のペースで生きる、ということである。
すぐにわかるのは、主人公ススメ(なんという皮肉で、批評的な名前だろう!)の独特の歩き方。俯き気味に映るが、控えめというより、己の道のりをじっと見つめ淡々と進んでいく虫を思わせる。独立独歩のありようを、決して誇示することなく、生態の一つのようにして、画面に定着させていく井口の入念さはただごとではない。
意中の女性、宮子を演じる馬場ふみかにかなり気を遣っていることは一目瞭然だが、彼女との会話はひたすら横すべりしており、ダイアローグがモノローグと化している。噛み合わないが、そこにさほどの不満もなく、独り言をむしろ情感たっぷりに語る姿には、SNS的な孤立した真情も感じ取れる。そう、彼は満たされているわけではないが、自身の欠落を欠落として感じる感覚を(おそらく積極的に)麻痺させているのだ。井口は、精緻なグラデーションで、ススメの心象を彩色している。
俳優として極めて文学的で、存在そのものが稀有
破綻、あるいは転倒も、物語の展開として訪れるが、いわゆる巻き込まれ型の受動態でも、状況を破壊=進化させていく能動態でもない、ニュートラルでフラットな常態がキープされている。井口が形作る主人公像は、それ自体が文学的だ。これは、伊藤ちひろの、脚本家であり小説家であることからの文学性ではなく、井口が俳優として、すこぶる文学的な表現者であることに由来している。
人間の主観を、どのように画面に息づかせるか。井口は、あくまでも寡黙に、マイペースで呼吸し、行動することで、彼の内部にある異次元のような“鼓動”の在処に、私たちを引き寄せる。大仰な素ぶりなどなにもないのに、この映画を観る者は、その“鼓動”のすぐそばで耳をすますことになるだろう。気がつけば、この、ほかには類を見ない、珍しい生きものの、世界でたった一つの生態を愛おしく感じることになる。頑固なようで素直。屈折しているようで真っ直ぐ。慎重なようで無防備。混乱しているようでクリア。
歯科医としてのキャリアもあり、女性にモテないわけでもない、少し少年ぽくて、夢見がちなだけに見えるススメ。その内面にある底なしの“渦”に、井口は彼にしか表すことのできないチャーミングな佇まいのまま、私たちを没入させる。この感触はフレッシュだ。
新しい演技文体を有した俳優。おそろしくも可笑しい。ズレているのに真摯。熱はなくとも情はある。そのすべてが、文学的。俳優、井口理は、存在そのものが2020年代の稀有な文学である。
文/相田冬二
※山崎賢人の「崎」は立つ崎が正式表記