東映・手塚治元社長「お別れの会」に沢口靖子、東山紀之ら映画人約1700人が参列

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東映・手塚治元社長「お別れの会」に沢口靖子、東山紀之ら映画人約1700人が参列

<コメント>
●吉村文雄(東映株式会社 代表取締役社長)
「社長室のデスクの左側の壁には歴代の社長の写真が飾られており、その一番右手に手塚さんの写真があります。にこやかにこちらを見つめている手塚さんらしいスマートな写真です。手塚さんと初めて言葉を交わしたのは社内の懇親旅行の宴会の席でした。当時、花形プロデューサーとして第一線で活躍されていた手塚さんは私にとっては全く別世界の人であり、緊張のあまり全く話が弾まなかった思い出があります。凄みがある、というのでしょうか。

にこやかな雰囲気を醸し出していても、何もかも見透かされているような、笑顔でばっさり切られそうな、そんな印象は当時も今も変わりません。その凄みは、逆に言うと、頼もしさでもありました。手塚さんは、頼もしかった。私にとっては信頼できる最高の上司であり、様々なことを教えていただける大切な先輩でもありました。

手塚さん。今日もデスクに座って左側に目を向けるとあなたの笑顔が目に入ります。相変わらず緊張を感じますが、背中を押して頂いているようで心強くも感じます。まだまだ沢山おやりになりたいことがあったでしょう。無念だったと思います。その想いに応えることが出来るのだろうかと自問する毎日ですが、手塚さんがこだわっておられた『ものがたりを作り続ける会社であること』という理念は、私が責任をもって引き継いでまいります。どうぞ安らかにお眠りください。そして東映の行く末をこれからも見守ってください」

●石原隆(日本映画放送株式会社 代表取締役社長)
「1987年の夏、新人だった僕は、大泉学園の東映撮影所で初めて手塚さんに会いました。作品のタイトルは『スケバン刑事』。よく飲みに連れて行っていただきました。とにかく脚本が大切なんだということ。監督の審美眼を信じるということ。役者の感性を大切にするということ。作品作りに大切な基本をすべて手塚さんから教えてもらいました。

そして酔っぱらうと最後に手塚さんは、必ずこう繰り返していました。『石原さん、結局僕らは作ってナンボなんですよ』。その教え通り、僕はいま、できているでしょうか。本当にありがとうございました。そして、本当にお疲れさまでした」

●大友啓史(映画監督)
「撮影現場でお会いするたびに『楽しみにしています、思い切り演出してください』と笑顔で声をかけてくださり、東映70周年記念映画『レジェンド&バタフライ』へ想いをひしひしと感じておりました。体調のことは伺っていたのですが、それを感じさせることは無く、いつも東映への愛情と映画界を盛り上げたいという静かな情熱、強い志が真直ぐに伝わってきました。

公開後の2月、突然の訃報を伺い、全身から力が抜けるような虚脱感を覚えました。人生におけるこのタイミングで手塚さんにお会いできたこと、そして公開を見届けていただけたことは、私にとって大きな財産であり、誇りです。手塚さん、ありがとうございました。安らかにお眠りください」 

●里見浩太朗(俳優)
「東映の歴代の社長さんは皆さん映画の世界を歩んでこられました。その点、手塚社長は競争の激しいテレビドラマの世界で数多くの作品を手掛けてこられた正に現役のプロデューサーだったんです。62才と云う若さで天国に旅立ちをされるなんて本当に本当に残念でなりません。

私がお世話になってのは『特捜9』の数本ですが、私がうれしかったのは大泉のスタジオに私が入りますと必ず手塚さんがセットに来てくれていたことです。“おはよう”とお互いが立った後は何を話すわけでもなく、それでも最後まで心配そうに撮影を見守っておられました。手塚さんのそんな姿が今でも目に浮かんできます。

社長になられてから一度社長室を訪れたことがありました。“どうだ、社長の椅子の座り心地は?”って聞くと“いや三分座っていられないよ‼”って笑っていました。そんな物静かな温厚な手塚さんが私は大好きでした。一度ゴルフを一緒にと云う話も出ましたが残念ながら実現しませんでした。きっと手塚社長もそう思っていてくれると信じています。どうぞ天国でゆっくりとお休みながら我々我々を見守っていてください」

●沢口靖子(俳優)
「亡くなられた日のほんのふた月前に、いつものように朗らかに話しかけてくださったお顔がいまでも忘れられません。いつも気さくでユーモアにあふれ、和やかな気持ちにさせてくださいました。私の代表作となる作品『科捜研の女』と出会わせていただき、担当から離れたあともずっとずっと見守っていてくださいましたね。心から感謝しております。手塚さん、本当にありがとうございました。どうぞ、安らかにお休みください」

●戸田山雅司(脚本家)
「戸田山さん、京都に美味しいもの食べに来ない?」それが僕の『科捜研の女』のスタートでした。思えば手塚さんの言葉はいつも巧みでウィットに富んでいて、時にシニカルだったり……そんな言葉の魔術に、行き詰まったホン直しが何度救われたことでしょう。
2001年のあの甘美なお誘いがなければ、『科捜研の女』を始めその後の多くの東映の刑事ドラマに関わらせていただくことはなかったでしょう。手塚さん、本当にありがとうございました! そちらで美味しいものを食べて待っててくださいね。

●橋爪功(俳優)
「手塚くん、嘘だろ、おーい、早過ぎるよ!___ 。
毎年冬の京都で、貴方は撮影中何度も訪ねてくれたよね。心の中で僕は、随分頼りにしていました。『嘘でしょ!?』と大声で笑う貴方が目に浮かびます。…でも本当です。貴方をずっとありがたい友だちだと思っていました。___、どんどん長くなりそうです。けれど、アナタの目に止まらない。それが、……とても悲しい」

●南野陽子(俳優)
「『スケバン刑事II』の撮影が38年前。高校3年生の私は、来る年の撮影時間を確保するためにも絶対に卒業を遅らせるわけにはいきませんでした。出席日数は足りておらず、ならばテストの成績で、、、となり、夜、ドラマの撮影が終わってから楽屋で勉強。その先生がアシスタントプロデューサーの手塚さんでした。といっても、眠い私はやる気もおきず、全く捗りませんでしたが、、、。


そして、無事卒業したものの、大学生活に憧れていた私の想いを察し、母校の大学に連れていってくれたり、読むべき本や映画を薦めてくれたり、グチを聞いてくれたり、皆で花火をしたり、、、。大ヒットプロデューサーになっても、社長さんになっても、体調が思わしくないときも、ずっとずっと家庭教師のお兄さん、、、というような存在で、支えていただきました。まだまだ来る歳のために、その存在は必要なのですが、どうして、、、。早すぎるでしょう、、、。と、したためつつも、ほんとうに実感がないというのが本音です。安らかな眠りにつかれますようにお祈りいたします」

●内藤剛志(俳優)
「手塚さん。いま一番寂しくて悲しいのは、手塚さんの声が聞けないことです。あの印象的な良い声。いつも笑顔で丁寧にお話しになる声。そしてきちんと届くように話されて、僕は何度も『腑に落ちるとはこういうことだな』と思いました。その声が聞けないのがいまはとても寂しいです。

『内藤さんは東映の俳優だから』と言って下さった一言で、今日ここまで来ました。その声が未だ耳に残っています。たくさんの現場での楽しい想い出と、笑顔の手塚さんと、そして手塚さんの声を、永久に心に刻んでいきたいと思います。本当に長い楽しい時間をありがとうございました。そして、僕はまたどこかできっとまたお会いできると信じております。手塚さん、ありがとうございました」

●北大路欣也(俳優)
「僕は、東映京都撮影所も東映東京撮影所も本当に長くお付き合いしていますが、そのなかでしっかりと撮影現場を支えられていて、安心させていただける存在でした。ついこの間、東京撮影所でまだテスト中のLEDウォールが設置されたスタジオを見させていただいたのですが、すごい画面が出てまして。近い将来はこういう形で撮影もできるように準備をされているのかと驚きまして。こういう努力もしてらしたんだなと感謝いたしました。そして、これまでいただいた宝をどう生かすかっていうのは、今度は我々にかかってくると思っています。感謝とともに、これから頑張りますと、心のなかでそう報告をいたしました」

●斉藤由貴(俳優)
「『スケバン刑事』という作品で初めてお会いしました。最後の最後までテレビのプロデューサーというよりご本人が俳優さんのような、少年っぽさをずっとお持ちの可愛らしい方っていう印象でした。いま、こうしてご遺影を見上げて、すばらしい人生だったんじゃないのかなと思うんです。自分の好きな仕事をやって、自分が創造した様々な作品、世界を作り上げて、そこのトップに登って、色々な現場を動かし、夢を持ち、駆け上がり、駆け抜けて。もちろん、短かったです。でも、私は、すばらしい人生だったなと思って、『ほんとに良かったです、すばらしい人生でしたね』って献花をしながら、心のなかで申し上げました」

●井ノ原快彦(俳優)
「ちょっと時間が空くと、きさくに撮影現場に顔を見せてくださったりして、それが出演者にとっても、スタッフにとっても、とても安心感につながって。安心して現場でお仕事させていただける存在でした。この世界で生きている人よりも近く感じる瞬間があるというか、亡くなってしまったからこそ、近くにいてくれるっていうような存在に思える人たちがどんどん僕の周りに増えていく。それをネガティブじゃなくてポジティブに思っています。天国の手塚さんには、仲間たちの心の糧、心の支えになってくださいとお伝えしたいです」

●東山紀之(俳優)
「いつも制作が始まる時には顔を出していただいていました。下から静かに支えてくださる人柄でした。これまでずっと支えていただいていましたので、その志を引き継いで作品に取り組んでいきたいと思います。手塚さんに恥ずかしくないような作品を皆さんと共に作っていくというのは、僕たちの使命だと思っています。いまは本当に安らかに天国で過ごしてほしいと願っています」

●ご遺族 お別れの会によせて
「本日は手塚治のお別れの会にご参列賜りまして誠にありがとうございます。2月11日の急逝は言葉もなく、その後の葬儀、告別式を執り行い、4月2日に四十九日法要、納骨まで無事に相済ませる事ができました。
皆様のお心遣いに改めて感謝申し上げますとともに生前のご厚誼に厚くお礼申し上げます。多田会長、吉村社長はじめ東映の社員の皆様、そして数々の現場で手塚治を育てて頂きましたすべての皆様にお礼を申し上げます。また、治が映画、テレビの世界に身を投じるスタートとなった木更津高校の映画研究部、同級生の皆様にもお礼を申し上げます。

小学生の時の『ゴジラ』など怪獣映画から始まり高校時代の映画研究部での友との楽しい時間、時には地元の自衛隊施設付近での撮影後に警察から注意を受けた事などいまとなれば治のエピソードの一つになっています。忙しいなかでも父親の墓参りや母親の誕生日や母の日にはお花や素敵なプレゼントをくれるなど優しい家族思いの治でした。家に帰れば好物の海老や蟹の料理を作り家族で食卓を囲みました。

『治』『治ちゃん』『治君』『治にーにー』と皆から違う呼び名で呼ばれ私たち家族にとってかけがえのない大切な時間でした。私たちにはいまでも信じられない心境です。心穏やかに現実を受け止めて乗り越えていかなければと思っています。家族を愛し、地元木更津を愛し、ゴルフを愛し、東映を愛した62年でした。

治の大事な映画の一つに1963年公開の『アラビアのロレンス』があります。過酷な環境の砂漠での出来事が『生きる』ことへの答えを探す映画として、そのなかのセリフに『運命とは何か?』『未来は決まっていない。運命など存在しない。』というものがあります。まさに手塚治の人生そのもののような気がします。自分の運命に立ち向かい、時には抗い、時には全力で切り開き。映画少年そのままに62年の人生を全力で走り抜けた幸せな人生であったと思います。

手塚治を愛してくださった皆様
ありがとうございました

手塚美津子(母)
飯嶋浩子 (姉)
飯嶋和明 (義兄)
飯嶋修平 (甥)」

●主な参列著名人(五十音順)
俳優:浅野ゆう子、伊藤英明、大路恵美、大西結花、上川隆也、金田明夫、岸部一徳、北大路欣也、久保田磨希、小林稔侍、斎藤暁、斉藤由貴、笹野高史、沢口靖子、高島礼子、舘ひろし、内藤剛志、中村由真、中山忍、橋爪功、半田健人、東山紀之、雛形あきこ、星野真里、松井誠、松下奈緒、松下由樹、松平健、三田佳子、山口香緒里、吉永小百合
監督:伊藤俊也、入江悠、榎戸耕史、大友啓史、梶間俊一、鹿島勤、阪本順治、前田哲、源孝志、本木克英

文/久保田 和馬

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