名匠イ・チャンドンの並外れた才気がほとばしる “主人公の死”から始まる衝撃作『ペパーミント・キャンディー』

コラム

名匠イ・チャンドンの並外れた才気がほとばしる “主人公の死”から始まる衝撃作『ペパーミント・キャンディー』

ラストシーンのヨンホの表情に凝縮された、イ監督の人間観と人生観

1987年に国家の民主化が成し遂げられた韓国にとって、本作が扱う時代背景はまさに激動期だった。とりわけ重要なのは、第6章「面会」で描かれる光州事件だ。軍事政権下の韓国軍が平和的なデモを行っていた一般市民を無差別的に虐殺したこの歴史的大惨事において、兵士として動員された若き日のヨンホは悪夢のような悲劇を体験し、そのトラウマゆえにのちの人生を踏み外していくことになる。ちなみに光州事件が起こった1980年5月当時、イ監督は大邱の大学に通う4年生だった。韓国現代史の被害者というべきヨンホはイ監督と同世代の主人公であり、屈折した彼の人生には当時の韓国の社会状況が色濃く投影されている。

兵士として動員されたヨンホは、面会にきた初恋の女性とすれ違う(『ペパーミント・キャンディー 4Kレストア』)

そして映画は、1979年秋の第7章「ピクニック」へとたどり着く。舞台となるのは、第1章と同じ鉄道橋がある河原だ。この最終章では大学生のヨンホと初恋の女性スニム(ムン・ソリ)とのなれそめが、物語全体のキーアイテムとなるペパーミント・キャンディー、すなわちハッカ飴をめぐるエピソードとともに描かれる。ヨンホの人生において、最も輝かしい幸福な瞬間だ。

【写真を見る】死にゆく男の頭に残るのは、美しすぎる“初恋“の記憶だった…(『ペパーミント・キャンディー 4Kレストア』)

私たちの現実世界における人生は絶対的な不可逆性を持つが、“時間の芸術”ともいわれる映画は過去に戻ることを可能にする。しかし本作は「あの頃はよかった」風のセンチメンタルなメロドラマではない。ラストシーンにおけるヨンホの表情に、イ監督の尋常ならざる奥深い人間観、人生観が凝縮されている。死にゆく男の回想で始まったこの映画は、まるで自らの未来のイメージを予知したかのような青年の姿を見すえて幕を閉じるのだ!

また、『ペパーミント・キャンディー』は『イ・チャンドン アイロニーの芸術』を鑑賞するうえでも興味深い。フランス人のアラン・マザール監督は、『ペパーミント・キャンディー』に触発されて現在から過去へと時制を逆行する形式を採用し、イ監督の幼少期から青年期、作家時代、そして監督デビュー後の歩みをたどっていく。


『ペパーミント・キャンディー』のロケ地を訪れたイ・チャンドンが、撮影当時を振り返る(『イ・チャンドン アイロニーの芸術』)
『ペパーミント・キャンディー』のロケ地を訪れたイ・チャンドンが、撮影当時を振り返る(『イ・チャンドン アイロニーの芸術』)[c]MOVIE DA PRODUCTIONS & PINEHOUSE FILM CO., LTD., 2022

イ監督が自ら『グリーンフィッシュ』から『バーニング 劇場版』までの思い出のロケ地を再訪し、各作品のテーマやチャレンジングな演出の試みについて語るくだりに加え、ソル・ギョング、ムン・ソリ、ソン・ガンホ、チョン・ドヨンらが撮影時の貴重なエピソードを披露。まさしく必見と断じたい充実のドキュメンタリーだ。

文/高橋諭治

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