濱口竜介監督が『悪は存在しない』で見せた新たなメソッド。チケット即完の釜山国際映画祭スペシャルトークで解説
濱口監督の過去の作品群と比べ、今作ではカメラの動きに特徴がある。それについても、Q&Aのモデレーターを務めた映画評論家より質問が出ていた。その後に出た質問の音楽とカメラ位置は、今作で濱口監督が観客との関係を作る方法として行ったと認めている。
カメラの置き方は、観客との関係を自分なりに作ったもの
「音楽のライブ映像を作るということが大きいと思います。今回は、誰の視点かと言うとカメラの視点でしかないものを入れるようにしました。自分の過去作を見ていくと、カメラを見る登場人物がいます。だいたい対話の最中にカメラを見るので、このカメラはいわゆるPOV(ポイント・オブ・ビュー、視点)ショットと呼ばれるものです。自分の考えではPOVショットは撮ったことがない、というのが正直なところで、カメラが別の誰かの視点を代理できるとは思っていません。カメラはただそこにいて、撮影行為をしているのみです。いわゆるPOVショットでは説明できないようなショットもいくつかはやっていたりしますが、今回は本当に『カメラが撮っているんだ』ということを明らかにしたかった。普段そういうものが一般的に避けられるのは、観客が映画を信じられなくなるからだと思います。でも映画制作を続けてきて、段々と観客にもっと力を借りてもいいんじゃないかと思っています。自分たちが撮っているものは本物であるというふりをせずに、それ以外にも観客と付き合っていく方法があるんじゃないかと。今回のカメラの置き方は、観客との関係を自分なりに作ったものです」
同様に、石橋英子による音楽の使い方にも、濱口監督なりの観客との向き合い方が反映されている。「石橋さんに作っていただいたメインテーマ曲は、撮影を終えて編集したものを見て作っていただいたので、本当に映像とよくマッチしている美しい曲でした。無理なく観客を感情的な高まりに連れて行くような、そういう楽曲でもあると思います。本当に美しく、何度でも使いたいと思ったんですけれども、一方で、特に美しい音楽は観客の感情をコントロールしてしまう側面があるわけです。僕が観客と結びたい関係は、さっきのカメラの話とつながるかもしれませんが、もうちょっとだけ冷めた関係というか、少し距離がある関係性でした。少し距離があったほうが、この映画とちゃんと向き合ってもらえると思っていました。
そこで、ある程度音楽を聴かせた上で、あるところで乱暴に断ち切ることをしています。おそらく観客はもっと長く聴いていたいと思うようなときに断ち切ると、どこか宙ぶらりんになるのですが、実際のところ、音楽は消えても映像と環境音は続いています。音楽が消えた時に、映像と音響が生々しく感じられると思います。そのときにおそらく音楽にとっても映像にとってもいい関係、お互いに独立した関係が観客と結べるんじゃないかと思っています。映像と音楽と観客が、どこか大人の関係が結べるようになる使い方を心がけました」
Q&Aでは、ラストシーンの衝撃について多くの質問が寄せられていた。ここではネタバレは避けるが、映画祭の上映でも観客は一瞬あっけに取られ、そして大きな拍手が起きるといったことがよくあった。「人間として論理的なほうである」と自身を表す濱口監督によると、このエンディングは脚本を書いた当初からのものであり、最後まで変えようがなかったと言う。「このエンディングで間違いがないと思ったのは、撮影で実際に演じている彼らを撮っているときでした。先ほど、役としての経験を重ねた俳優が、脚本を書いた自分やカメラの後ろにいる自分よりもはるかに(キャラクターに対して)理解を持っていることがあると言いましたが、この場面でもそう感じていました。そして、シナリオに『霧が出てくる』と書いたところ、撮影で実際に霧が出てきたので『これでいいんだ』と思いました」と説明している。
1時間45分以上にも及んだQ&Aでは、わずか3年弱の間にカンヌ、ヴェネチア、ベルリンの3大映画祭の主要賞と、アカデミー賞国際長編映画賞を受賞した“若き天才監督”の映画術に迫りたいと、身を乗り出すように聞いている若い観客の姿が目立った。観客席から出る質問も、登場人物の衣装の色彩設定であったり、車の撮影におけるカメラ位置など、専門的な視点から寄せられたものが多かった。釜山国際映画祭は、映画を観る目が肥えた観客が集まる場所として知られているが、映画祭の数多いイベントの中でも最も白熱したトークの一つだったと思う。濱口監督が試みたように、彼の作品は確実に観客と作品の向き合い方に挑戦している。この態度こそ、釜山が愛してやまない映画制作者の姿なのだろう。
取材・文/平井伊都子