三輪記子弁護士が、夫婦の秘密を法廷で暴く『落下の解剖学』を解説「有罪と認定できないものは、すべて無罪。白黒つけたい欲望に抗うことも大事」

インタビュー

三輪記子弁護士が、夫婦の秘密を法廷で暴く『落下の解剖学』を解説「有罪と認定できないものは、すべて無罪。白黒つけたい欲望に抗うことも大事」

「本作に描かれているのは、男性優位の社会に対するチャレンジであると思います」

サンドラのような女性のことを「鬼嫁だ!」と揶揄する男性もいるらしいが…
サンドラのような女性のことを「鬼嫁だ!」と揶揄する男性もいるらしいが…[c]2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

三輪弁護士の夫の樋口氏は、この映画を観て「既視感ありまくり」「うちがモデルですか?」と語っていたが、「樋口は家事・育児を実際にやってくれていますが、そこに便乗するようなかたちで、日頃家事や育児をほとんどやっていない世の男性たちが、サンドラのような女性のことを『鬼嫁だ!』と揶揄する限り、働く女が子どもを持つことなどできないと思います」と主張する。

「この映画は、ある意味とても現代的な問題を浮き彫りにしているといいますか、ここに描かれていることは、男性優位の社会に対する、チャレンジであるとも言えると思うんです。日本に比べれば、遥かに男女が対等であるように見えるフランスでも、残念ながらあまり変わらない状況なのかもしれないなと感じました。そもそも固定観念があるからこそ、最初は自分から率先して家事や育児を始めたにも関わらず、『子どもの世話があるからオレは自分の仕事ができない』と、サミュエルのように途中で泣き言を言いだしたりするわけじゃないですか。女性がもともとマルチタスクに向いているわけではなく、やらざるを得ないからやっているだけのこと。男性だって慣れたら効率よくこなせるようになる。現に、私の夫の樋口も2人の子どもを育てている現在のほうが、1人目が生まれた時より仕事ができていますから」

「サンドラには夫を殺す動機が見当たらない」とコメントした三輪弁護士
「サンドラには夫を殺す動機が見当たらない」とコメントした三輪弁護士[c]2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

ドイツ人である妻のサンドラと、フランス人である夫のサミュエルが、共に母国語ではない英語で口論をしている、というのも、この夫婦の関係性をより複雑にしている要因の一つ。「日本語の場合は、二人称の使い方ひとつとっても、“お前”なのか、“君”なのか、“あなた”なのかで印象が変わりますが、たとえ英語であっても、母国語ではない言語を操る場合、時に自分の意図とはニュアンスが変わってしまい、誤解を与えるようなこともあったのではないか」と三輪弁護士は指摘する。三輪弁護士も「夫婦喧嘩もお互いの名前で呼び合っている限り、殺し合いには発展しないと言われますよね。いまは夫婦喧嘩の最中も、“ふさちゃん”とか“ふさ”とか名前で呼ばれていますが、もしも仮に樋口に“お前”と呼ばれたら、私なら絶対に許しません!(笑)」と笑う。

「『わからないことはわからない』という立場を貫く勇気」

弁護士役のスワン・アルローは、「Hot Lawyer!(ホットな弁護士)」と話題を集めた
弁護士役のスワン・アルローは、「Hot Lawyer!(ホットな弁護士)」と話題を集めた[c]2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

一方、裁判でもドイツ語を母国語とするサンドラが、フランス語の会話の途中で「英語で話してもいいか」と断りを入れ、同時通訳が入る場面が描かれる。母国語が使えないために、反論したくてもできないもどかしさもあるように見受けられたが、三輪弁護士は「反論すると裁判官の心証を害するばかりか、口数が多いと言い訳をしているように聞こえてしまう。つまり、すぐに反論できなかったことが、サンドラにとってはむしろ有利に働いている。法廷での言語の使い分けに関しても、監督はかなり緻密に計算されているはず」と解説する。

明快な答えが提示されることを期待して観ると、どこか肩透かしを食らったような気分になり、モヤモヤする人もいるかもしれない。だが、三輪弁護士は「裁判ですべてが白黒ハッキリつくものだと思っていること自体が、そもそも大きな間違い!」と声を大にする。


「裁判においては、“有罪と認定できないものは、すべて無罪”なんです」と語り、「何事にも白黒つけたいという欲望に抗うことも、我々の人生の大事な営み。この映画では『わからないことはわからない』という立場を貫く勇気が、観客に求められている気がします。最終公判を翌日に控え、息子のダニエルの付き添いを命じられた女性が、『わからなくても、どちらかに心を決めなきゃいけないんだよ』と彼を諭す場面がありますが、私は『あれはやってはいけないアドバイスだ』と思いながら映画を観ていました。『わからない』と正直に答えればいいんです。もし私がアドバイスするなら、『証言できる機会は、もうこのタイミングしか残されていないんだよ』という“事実”だけを、彼に伝えますね」

周りの状況が一番よく見えているのは、実は目が不自由なダニエルなのかもしれない
周りの状況が一番よく見えているのは、実は目が不自由なダニエルなのかもしれない[c]2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

最後に、本作の見どころを改めて伺うと、記事冒頭の言葉を再び引き合いに出しながら、「世の中の多くはグレーであることを作り手側が理解していて、それをそのまま描いているところ」であるとし、「本作が受け入れられるかどうかで、観客の成熟度がわかる。こういった映画がヒットする土壌がないと、夫の樋口の小説も広く好まれないので妻としては困ります(笑)。日本でもこういうグレーな映画がどんどん作られて欲しい」と語る三輪弁護士。

「『すべてを知りたい』『わかりたい』と思うことは、『全知全能の神の視点を手に入れたい』と願うのと同じこと。この映画において、サンドラとサミュエルの息子のダニエルに視覚障害があるという設定自体が、実に示唆的であるとも言えるかもしれません。みんな『自分だけはすべてが見えている』と思い込んでいるから、おかしなことになるんです。それは夫婦だけでなく、裁判官にも、検察官にも、弁護士にも言えること。自分が見ている世界と、他人が見ている世界は、絶対に同じではない。あの映画で周りの状況が一番よく見えているのは、実は息子のダニエルなのかもしれない。ものを見るのに必要なのは、目だけではないのではと考えさせられました」

取材・文/渡邊玲子

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