『青春ジャック』の当時を知るシネマスコーレ元従業員が語る、映画館をつくる人々の熱気と名古屋ミニシアターのこれから
『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(公開中)の評判がめちゃくちゃいい。東京と名古屋、愛知県の江南市で行われた先行上映イベントはいずれも満席完売でとてつもない熱気に包まれ、SNSには批評家や映画関係者の絶賛コメントが連日アップされ、すごい盛り上がりを見せている。
若松監督に会うためにシネマスコーレを訪れた、当時高校生の井上監督
本作は、1983年2月に『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(08)、『キャタピラー』(10)などの若松孝二監督が立ち上げた名古屋のミニシアター「シネマスコーレ」の黎明期に、『戦争と一人の女』(12)の監督で、前作『止められるか、俺たちを』(18)、『福田村事件』(23)などの脚本で知られる井上淳一監督が迫ったもの。井浦新演じる、慣れない映画館運営に奔走する若松監督と、いまでは名物支配人になった東出昌大扮する木全純治との真実のドラマを、若松監督とシネマスコーレに当時“青春”をジャックされた井上監督の実話を絡めて描いた青春ムービーだが、当時の空気と熱気を感じさせながらも、決して懐古主義に浸ることなく、その息吹を今日に繋がる現在進行系のタッチで紡ぎだしているのが気持ちいい。
そこがあの時代を知る者の胸を熱くし、『劇場版シネマ狂想曲 名古屋映画館革命』(65)などでシネマスコーレの存在を知った若い映画ファンたちからの熱い視線も浴びる状況を作り出しているのかもしれない。
ただ、僕自身はちょっと複雑な、こそばゆい感覚が同時にあったのも否定できない。というのも、僕も当時あの場所に確かにいたからだ。最初は大学の映画研究会に所属するただの映画ファンとして、シネマスコーレに足を運ぶだけだった。それが83年か84年のある日、支配人の木全さんに誘われてだったか、自分から「やりたい」って言ったのかは覚えていないけれど(少なくとも田中俊介さんが演じた劇中の磯崎くんとは違い、隣に女子はいなかった)、バイトをすることになった。
あの時間は、かけがえのないものだ。バイトといっても、仕事は劇場に関する多岐に渡り、映写と映写前のアナウンスや消灯、パンフレットやお菓子などの販売、掃除はもちろん、フィルム上映が主体の当時はフィルムチェンジをしなくてもいいように5~6巻に分かれているフィルムを繋いで大きな銀盤に乗せる編集作業を任されることもあった。
僕が大学映研の後輩と担当した、金曜日のオールナイトは特に刺激的な時間だった。映画でも描かれているように、当時のシネマスコーレは月の3週はピンク映画を上映していて、ビルの上の階はすべて風俗店。営業マン風の通行人から上の店のシステムを聞かれることも日常茶飯事だったけれど、呼び込みのお兄さんと談笑したり、夜中の0時前後になると必ずお菓子を買いにやってくる客引きのおばちゃんとの会話も新鮮で、大人の社会を覗き見するようなその時間も決して嫌いではなかった。そんな濃~い日々を重ねていた日中のある日、突然やってきて、たまたま受付にいた僕に「若松孝二監督は今日来てますか?」と声をかけてきたのがまだ高校生だった井上監督だ。その時のことは、後から木全さんに聞いた「あいつ、監督と一緒に新幹線に乗って東京に行っちゃったよ(笑)」という言葉と共に鮮明に覚えている。