『青春ジャック』の当時を知るシネマスコーレ元従業員が語る、映画館をつくる人々の熱気と名古屋ミニシアターのこれから
“映画”という文化を途絶えさせないという強い想い
クラウドファンディングで集まった想像を上回る金額で可能性が増したことも引き金になった。だが、最終的には“名古屋から映画という文化の灯を消してはいけない”という強い想いを持った3人が、平野元支配人の遺志を引き継ぐ形で実現に向けて舵を切ったという見方をするのが正しいような気がする。そう思うのは、僕が名古屋シネマテークのスタッフでもあったことが大きく関係している。それは僕の誇りでもある。大袈裟でも何でもなく、シネマスコーレとともに、名古屋シネマテークでの出会いや経験、学びがなければ今日の自分は間違いなくいないからだ。
ゴダールやロベール・ブレッソン、ダニエル・シュミットやデレク・ジャーマン、ラース・フォン・トリアーやデヴィッド・クローネンバーグ、マルコ・ベロッキオやアキ・カウリスマキ、アッバス・キアロスタミの映画を初めて観たのも、小川紳介や川島雄三を知ったのも名古屋シネマテーク。観客として通っていたときはちょっと背伸びをした感覚にもなったし、目から鱗の連続だったが、スタッフになってから出会った原一男監督の『ゆきゆきて、神軍』(87)や森達也監督の『A』(98)の衝撃も忘れられない。インド映画の『ムトゥ 踊るマハラジャ』(95)が連日超満員で、場内がサウナのような状態になったのにお客さんがみんな笑顔で出てきたのも懐かしい思い出だ。
未来に目を向け、これからも特別な体験を人々に届けていく名古屋のミニシアター
同館では、そんな少々尖ったラインナップとともに、当時の支配人、平野さんの映画と向き合う真摯な姿勢に目をみはった。その“真摯な”というところを言葉で説明するのは難しいし、それはすべてのミニシアターのスタッフがやっていることと言われればそれまでだが、平野さんはそのすべての作業を極めて細やかに、とことんまでやっていた。多くの人に観てもらいたいと思う作品を選ぶ作業には特に慎重だったような気がするし、遅くまで劇場に残り、ボロボロの状態でやってきたフィルムの修繕をしている姿を何度も目撃した。上映を請け負えない映画の配給会社の担当者に「なぜ、上映できないのか」という理由を丁寧に書いてFAXしていたのも覚えている。
繰り返しになるが、そんな平野さんの精神を、かつて彼とともに働いた「ナゴヤキネマ・ノイ」のチームが間違いなく受け継いでいる。オープニング作品のラインナップを見ればそれは一目瞭然だろう。年間1万台の救急車を受け入れる名古屋掖済会病院のER(救命救急センター)に密着した東海テレビ制作のドキュメンタリー『その鼓動に耳をあてよ』(23)、ゴダールやアキ・カウリスマキらに影響を与えたデンマークの先鋭的な映画監督カール・テオドア・ドライヤーの劇場初公開作『ミカエル』(24)を含む特集上映、ハンガリーの鬼才タル・ベーラの傑作『ヴェルクマイスター・ハーモニー』(00)などなど、どれも圧倒的な強度を持った独自の色を放つ作品ばかり。
若い映画ファンには馴染みのないタイトルや初めて目にする監督名ばかりかも知れないが、僕が昔そうだったように、新しい映画と出会い、知らなかった世界への扉を開くことができるのがミニシアターを訪れる醍醐味。それができる場所を提供するというスタンスが、名古屋シネマテークのDNAを継承するラインナップに強く打ち出されているのだ。開館にあたって場内の椅子のスポンジやカバーを変え、ロビーの椅子も一新。近隣のライブハウス「Tokuzo」のチームにメンテナンスをしてもらって音響も格段によくなったようだし、オンラインでのチケット販売も導入した。ただ、道のりが険しい現状は変わらないし、以前のような運営では同じことになってしまうので、長く継続していくことを第一に考え、無理をしない範囲でできることを模索しながらやっていくという。
「クラウドファンディングに協力していただいて開館できたので、その人たちの映画館でもあるし、観に来てくれる人たちの映画館でもある。なので、みんなの映画館、私たちの映画館になっていけるといいなと思っているんです」と永吉直之支配人は語る。
シネマスコーレとナゴヤキネマ・ノイ。このふたつのミニシアターは名古屋の貴重な財産だし、趣の違う2館で未知の映画体験ができる地元の人たちは幸せだ。訪れたことがある人はもちろん、この記事で初めて知った人もぜひ一度足を運んでみてほしい。
文/イソガイマサト