映画『ルックバック』徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが、時を経てより多くの人に刺さる物語となった理由を熱く語る
現実感を一層強化している“京本の訛り”と“haruka nakamuraの楽曲”
この“現実感”はアニメーションになることで一層強化されている。元々映像作品のようなコマ運びとリアルなタッチではあったが、それを繋ぎ、無理なく動かすというのは地道で繊細な作業だったことだろう。原作のコマで切り取られた表情と表情の間、身体の動き、呼吸、ひろがった画角に入る背景全てがきちんと『ルックバック』の世界の中におさまっている。ひとつひとつ挙げたらキリが無いほど緻密に加えられた数秒ずつが“漫画”を“映画”にしていた。見事な職人技だ。
また漫画原作の映像化にあたり、最も不安視されるのが”声優”だろう。特に映像芝居をメインとしている俳優が務める場合は悪目立ちしがちだが、今作で主演を務めた河合優実と吉田美月喜の芝居はかなり良い意味でなんとも思わなかった。ここで「演技が素晴らしかった!」なんて思わせちゃあならんのだ。声優の存在さえ忘れさせてなんぼ。もっと褒めてほしいところかもしれないけどこれが最高の褒め言葉だ。なんとも思わなかった!原作にある台詞の書体、字の大きさ、フキダシの位置を汲み取って芝居をしている証拠だ。
そういった陰に徹するいぶし銀演出の一つが、京本の訛り。これは原作からは読み取れなかった演出である。この地味さと思い切りと的確さには舌を巻いた。今これ書きながら実際にベロをくるんとしてみましたが、顎下の筋肉を攣りました。痛いです。卒業証書を渡しに来た人物が、学年新聞で四コマを連載していたあの憧れの“藤野先生”だと分かり、部屋を飛び出して裸足で(原作ではつっかけを履いていたが、映画では裸足。これもなりふり構わず飛びだした京本の心情をさりげなく補強している)追いかけてきた京本が、たどたどしくも藤野への想いを語るシーン。ばりばりに訛っている。恐らく無自覚に訛っている。東京モンには分からんかもしれんが、田舎の引きこもりはああなるのだ。藤野をはじめ、学校のシーンでのクラスメイト達も、教師も誰ひとり訛っていない。そもそも若い世代ほど訛りは薄くなってきているし、公的な場では基本的に標準語で話すことが多い。しかし家族と話すとき、特におじいちゃんおばあちゃんと話すときには私もしっかりめに訛る。「もう暑いでエアコンつけやーよ!(もう暑いからエアコンつけなよ)」といった具合だ。また敢えて親しみを出したいとき、感情的になったときも訛る。この使い分けは社会性を身につけていくうちに無意識にしていくものだが、学校へ行かず家族くらいとしか会話をしていないのであろう京本は、初対面の憧れの人に対してもばりばりに訛ってしまうのだ。
京本の訛りから背景が読み取れるのはこのシーンだけに留まらない。現実のシーンでこそないが、カラテキックで京本の命を救った藤野と会話を交わす場面では、京本の訛りがちょっと和らいで“よそ行き”になっているのだ。そうはいっても完全な標準語ではないし、興奮するとまた強めに訛ってしまう。このコミュニケーションの不器用さがいじらしく、京本なりに頑張って美大に進学して苦手な対人関係にも向き合ってきたということが分かる。どういうことだ、この解像度の高さは!!訛りの度合いまで調節してみせるなんて、手間のかかることを…。エンドロールで方言指導の欄を探して拍手を送るぐらいには敬服した。訛りも含めて芝居まで正確にあててみせた吉田美月喜、やっぱりもうちょっとちゃんと賞賛しておくべきかもしれん。あんた凄いよ。
映像で観られて特に嬉しかったのは、なんといってもあの田んぼ道。漫画を描くことを諦めた藤野が、その画力でプライドを打ち砕いた当の本人である京本に「藤野先生は漫画の天才です!」と才能を誰よりも絶賛され、喜びを抑えきれずに雨の田んぼ道を踊りながら走り抜けるあのシーンだ。鈍曇りの空と土砂降りの雨、どろどろにぬかるんだ田んぼ道――藤野の心情とは一見真逆な景色が、その激しさで共鳴する。さらにそこへ重なるharuka nakamuraの楽曲。生命のきらめく瞬間を閉じ込めたようなその音律が、暗い空も、泥も、全てを美しくみせる。あんまり美しいから涙が出た。歓喜に湧き、生命を謳歌するずぶ濡れの君よ、どうかこの日を忘れないで。疑わないで。そして出来るなら君に、幸多からんことを。そう祈らずにはいられなかった。
祈ってしまうのは、どれほど大事に抱きかかえていても、フッと胸の中から消えてしまうのを知っているからだ。