当事者へのこだわりが作りだす“すぐ隣にある現実”というリアルさ
本作では、『コーダ あいのうた』と同様にろう者の役を実際にろうの俳優が演じている。主人公の両親をはじめ、手話サークルで出会う人々など、聴者とおなじくらいのろう者が登場するが、その全てが“当事者”によって構成されている。そしてこの“当事者”へのこだわりは、ろう者役だけに留まらない。主人公の大がフリーライターに転身し、義肢装具の製作工房を取材するシーンを覚えているだろうか。ほんの短いシーンでストーリー上に大きな影響のないものだが、妙なリアルさがあって問い合わせたところ、あの工房は実在する場所で、出演しているのも実際に働いている方々だという。どうだろう、この徹底ぶり。あらゆる場面が限りなく現実に近い人と場所で構成されているからか、私はところどころドキュメンタリーを観ているような感覚に陥った。どこか遠いところの物語ではなくて、地続きの、すぐ隣にある現実として受け取ることができたのだ。
また、当事者を起用することで得られる大きな効果は、ネイティブな手話表現だ。手話は言語である。例えば、日本で生まれ育ち日本語を話す役柄を、アメリカで生まれ育ち英語を話す俳優が演じたらどうだろう。どんな名優だろうと、日本語が母語である私たちが観た時に全く違和感を覚えないかといえばそれは無理がある。些細な違和感だとしても物語への集中は削がれ、説得力にも欠けてしまう。それどころかムカついてきちゃう可能性もある。ほら、よく朝ドラで方言についてやんや言われるではないですか。関西弁の台詞なんかは特によく燃える。慣れ親しんだ言語に対するプライドというのは、誰しもが抱くものだ。だからこそほんの少しの違和感も鑑賞の邪魔をする。その違和感が無い、というのは、手話を扱う映像作品としてのクオリティを大きく変えているのではないだろうか。
聴者に囲まれて生まれ育った聴者の私には、ネイティブな手話とそうでない手話の違いというのがどれほどのものなのか、明確には分からない。しかし、本作を観ているうちに、手話にも個性があることならなんとなく分かった。劇中で手話にも方言が存在することが触れられていたが、その人の“話し方”とでも言おうか、そんなニュアンスを感じる場面があった。静かでさっぱりとした父親の手話、優しく丁寧な母親の手話。主人公、大がパチンコ屋で出会う女性の手話は豪快で気風が良い。この差異に気が付くと、ネイティブと非ネイティブの手話の違いについて一層興味が湧き、非ネイティブの俳優で演じられた別の映像作品と見比べてみようと思い立ったのだが、トヨエツがあまりにかっこよくて頭に何も入ってこなかった(トヨエツのかっこよさは永久に不滅です)。
コーダを遠い存在として捉えさせない!吉沢亮の力みのない演技
トヨエツのかっこよさを再認識したところでふと思った。そういえば本作の主人公を演じた吉沢亮だって相当かっこいいよな???あまりこうルッキズムじみた話はしたくないのだが、あのバッサバサのまつ毛ひとつをとっても日本人の平均的な顔面から逸脱したお顔立ちなのは事実である。この端正さが、本作を自分ごととして捉えることを難しくしてもおかしくないのだが、不思議とそうは感じなかった。何故だろうか。思うに、彼の演技における“てらいのなさ”によるものではないだろうか。
『コーダ あいのうた』でコーダという存在に注目が集まる中、日本のメジャーな映像作品でコーダを描いたものはまだ数えるほどしかない。センシティブ且つ注目度の高い役柄、加えて『そこのみにて光輝く』に代表される輝かしい功績を持つ呉美保監督作品で主演ともなれば、肩が外れるほどぶん回っちゃいそうなものだ。しかし吉沢亮の見せる演技は、非常にフラットである。「難しい役どころもこなしちゃう演技派な俺!」みたいな自意識が全然感じられない、いつもの吉沢亮だ。力みのない演技が、コーダを遠い存在として捉えさせない。しかしそのフラットな芝居の裏には、手話と口話の両方を操るうえでの表現バランスの追求があったはずだ。特に母親に苛立ちを募らせ、感情的に話すシーンでは緻密な演技構成が感じられる。きこえない母親に伝えるためだけではなく、感情の発露として思わずといった形でも手話が出るような、バイリンガルであるコーダならではの話し方。是非ともこのシーンについては、コーダ当事者からの講評を聞きたいものだ。