「母と子の愛情」というテーマを体現してみせた忍足亜希子の人間力
コーダというマイノリティの視線から語られる物語を、あまねく観客に“自分ごと”として受け取らせることに成功している本作。そのための大きな要因となっているのが、当事者の起用に加え、全体を通して描かれる「母と子の愛情」というテーマだろう。
母の愛を一身に受けた幸せな幼き日々。ひどい言葉を浴びせて傷つけた十代。人それぞれに多少の違いはあれど、きっと身に覚えのある台詞、空気、眼差し。少なくとも私には共感できる思い出が多々あり、胸が苦しくなるような懐かしさで涙がにじんだ。なかでも前半の幼少期、きらきらと美しくあたたかい光のなかで映し出される親子のやりとりには、親に愛されて育ったこのうえない幸福が思い返されて、私はつい昔のアルバムを引っ張り出して眺めた。まだ自意識の沼に足をとられる前の自分が、屈託のない笑顔で写真におさまっている。一緒に写っている母が若くて、なんだか切ない。どの写真にも疑いようのない愛が溢れていて、見ているだけでただただ幸せだった。
そうしてアルバムをめくっているうちに、いつの間にか母が隣にやってきて、聞いてもないのに思い出を語り始めた。半目で写った変な顔の自分も、「かわいい、かわいい」と愛おしそうに見つめながら話す母の横顔を見ていると、なんだか本当にかわいく見えてくる。幸福な時間だった。
いつでも微笑みを絶やさず、やわらかく深い愛で受け止めてくれる母。言ってしまえばやや前時代的で理想が過ぎる母親像にもかかわらず、こんなにも嫌味がないのは、役を演じた忍足亜希子その人の愛、その深さと大きさ故だろう。もうね、こういうのは演技力とかっていう次元ではないんですよ。技術だけでは埋められないものってあるんです。持ってないものは出せませんから。愛じゃよハリー、愛じゃ。
ひとりの人として生きてきた経験と、培ってきた叡智のひかる、強く美しくひたむきな愛。これが自然で穏やかであるのに印象的だった光の演出とシンクロして、作品全体を包んでいる。だからこそ、マイノリティを題材とした啓発的な印象というより、普遍的な愛を描いた作品であるという印象が強い。これは本当に稀有なことですよ、こんな俳優なかなかいない。何かしらの賞を差し上げたいので、誰かお願いします。
聴者とろう者の架け橋に…ふたつの世界をつなぐ映画の力
さて。ここまでベラベラと感想を話しておいてなんですが、この映画、是非とも“当事者”の感想を聞いてみたくなりませんか?私なんぞが寄稿していていいんでしょうか。やります!と手を挙げていながらマジで何様って感じだが、だってこの映画、聴者とろう者の架け橋になってるんだもん。最初に述べた通り、劇伴がない本作。クライマックスの駅のホームでのワンシーン、今まで自分に向けられた母の顔を大がブワーッと思い返す場面で、普通ならとびっきり感動的な劇伴をつけたいはずだが、あえて無音で映し出される。あの数秒間、聴者とろう者のふたつの世界が完全に重なるのだ。想像してもしきれない、と感じた世界と繋がることができる。これってさあ、技術だけでは出来ないことだよねぇ……。映画の持つ力や可能性ってものを、まざまざと見せつけられた気がする。悔しい。
聴者とろう者、そしてコーダ。ふたつの世界で、またその狭間で生きている私たちでも、この映画についてなら“同じ世界”の話ができそうだ。映画の感想は勿論、家族や母親との思春期エピソードも聞かせてほしい。マジで普通に、DMください。語り合いましょう。
文/梨うまい