『ぼくのお日さま』奥山大史監督の類まれなバランス感覚に宿る、“生まれたて”の表現【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
『ぼくのお日さま』(公開中)は不思議な作品だ。構図や照明や色彩設計から役者の細かい所作まで一分の隙もなく必然だけで作り込まれた画面の中で、偶然の奇跡としか思えないような美しい瞬間が何度も立ち現れる。ロケーションや時代設定やキャラクター設定からフィギュアスケートというモチーフの描き方まで徹底してリアリズムが貫かれながらも、どこかファンタジー作品のような感触と余韻が残る。作品を観ている最中には古今東西の過去作がいくつも頭の中をよぎるのに、観終わってみるとこれまでどこにもなかったような作品であることに気づく。つまり、奥山大史監督は長編映画2作目、商業映画としてはデビュー作となる本作で、いきなり比類のない作家性を手中に収めてみせたわけだ。
このような画面の隅々まで監督の意志が張り巡らされた(奥山大史は本作で監督だけでなく、脚本、編集、そして撮影まで1人で手がけている)作品を前にすると、インタビューの質問も自ずと焦点の定まった具体的なものとなってくる。「どうしてスタンダードサイズで撮るのか?」「どうしてフィルムの質感を求めながらもデジタル撮影なのか?」「どうして2作続けて少年を主人公にしたのか?」などなど。すべての質問に明晰な回答が返ってくるので、奥山大史という映画作家の特異性について、ある程度までは言語化されたテキストになっていると思う。もっとも、この作品の魔法のような輝きには、それだけでは容易に迫れるものではないのだが。
そんな奥山監督の明晰さは、作品の中身だけではなく、その届け方においても際立っている。長編映画1作目の『僕はイエス様が嫌い』がサンセバスチャン国際映画祭で最優秀新人監督賞を受賞した経験を糧に、「ゴールとしての映画祭」ではなく「スタート地点としての映画祭」が明確に目標設定された『ぼくのお日さま』は、実際、そのプラン通りに国内の観客にも国外の観客にも届こうとしている。コロナ禍以降ますますオリジナル作品の居場所がなくなりつつある日本の映画界において、どこに活路があるのかを指し示した作品としても、『ぼくのお日さま』は重要な一作と言えるだろう。本作を「ホップ、ステップ」の「ステップ」と位置付けているという奥山監督。この次にやってくる「ジャンプ」で一体どこまで遠く飛んでいくのか、いまから楽しみでならない。
「自分の知らない土地の人にまで、自分が納得しているクオリティのまま届けられる映画という表現フォーマットに惹かれるようになっていった」(奥山)
――この連載では毎回、新作の公開タイミングで監督にインタビューをさせていただいているわけですけど、それまでのフィルモグラフィーをたどって話をお伺いすることが多いんですね。でも、奥山監督はこれがまだ長編2作目なので、そもそも映画監督を志された理由からお伺いしていきたいのですが。
奥山「一番のきっかけとして認識してるのは、高校生の時に大人計画の『ふくすけ』っていう舞台を見たことで。それにすごい衝撃を受けて」
――それで演劇に目覚めたという話ならばわかりやすいのですが(苦笑)。
奥山「そうですよね(笑)。だから、最初は映画を撮りたいというよりも、ものづくり、なかでもお芝居というものに関わってみたいって、初めて『ふくすけ』を見た時に思って。薬剤被害によって障がいを持った少年の役を阿部サダヲさんがやられてたんですけど、その演技の迫力に完全にやられてしまって。最近もキャストを変えて再演をやっていて、それもすばらしかったんですけど、やっぱりオリジナル――自分が見たのは2012年のオリジナルの再演だったんですけど――が本当にすごかったんですよ。それで自分も演劇を作ってみたいと思って、高校生のころに下北沢の本多劇場で劇団の手伝いとかをしてたんですけど」
――まだ高校生なのに、積極的ですね。どうやって入り込んだんですか?
奥山「普通に劇団に連絡して、手伝わせてほしいって頼んで」
――本多劇場でやってるってことは、もうプロの世界ですよね。
奥山「そうですね。アルバイトってかたちで手伝いに行っていて。大学に入ってからも演劇関係のことは続けてたんですけど、やっぱり演劇って生じゃないと意味がないと思って。だんだん、残していけるものだったり、遠くの人――その時はまだ海外の観客のことまでは考えてなかったんですけど――自分の知らない人、自分の知らない土地の人にまで、自分が納得しているクオリティのまま届けられる映画という表現フォーマットに惹かれるようになっていって」
――きっかけは演劇だったんですね。
奥山「あと、これも高校時代なんですけど、ある時期、集中的にレンタルビデオショップでわっと映画を借りるようになって」
――奥山監督の学生時代だと、海外の大手ストリーミングプラットフォームが入ってくる直前で、まだレンタルビデオショップという業態が ギリギリ元気だった時代ですね。
奥山「はい。それでゲオとかTSUTAYAとか、学校の帰り道にバーって借りていって。部活もやってなくて本当に暇だったんで、安く時間を潰せるってこともあって、旧作をいっぱい借りるようになって。借りてくうちに、いろんな映画に出会ったんですけど、そのときに出会ったのが橋口亮輔監督の作品で。その時で5作品ぐらいですかね。監督コーナーの中でも、作品数は少ないほうだったので、一気に観ようとまとめて借りたんです」
――やっぱりレンタルビデオショップって、過去作があったりなかったりするストリーミングと違って、その監督のフィルモグラフィーがより視覚化されますよね。
奥山「そうなんですよ、並んでる本数で、その人が何本、どんなジャンルの映画を撮ってきたかがひと目でわかる。それで、数がそれほどないながらも、全部が傑作だった橋口亮輔監督の作品群にすごい惹かれて。こういう映画を撮ってみたいなっていうのはその時から思ってたんですけど、当時はまだ、演劇以上に映画の作り方、撮り方がわからなかった」
――高校卒業後は青山学院大学と映画美学校に通われていたとのことですが、それはどういう時系列なんですか?
奥山「青学の総合文化政策学部っていうところで映画のプロデュース論とか広告論について学びながら、大学2年生、3年生の時に美学校にも通い始めて。だからその2年間はダブルスクールですね」
――そのころから、実作に関心が向かっていった?
奥山「大学2年の時から、映画の撮影をし始めたんです。友達が監督する作品でカメラマンをやり始めて。カメラ機材がすごい好きだったので、最初はそれがきっかけで。フィルムカメラで写真を撮るのにハマっていった延長線上で映像を撮るようになった感じで、気づいたら自主映画を撮影するようになっていって。それが楽しかったので美学校に通うようになって、映画監督をやりたいと思うようになりました」
――『僕はイエス様が嫌い』は学校の卒業制作とのことですが、それは映画美学校の?
奥山「いえ、青学の卒業制作です。3年生、4年生で映画のゼミにも同時に通っていて、それでゼミの卒業制作として。卒業論文って選択肢もあったんですけど、作品制作も選んでもよくて。『イエス様』では結構巨大なグリーンバックを使用したんですけど、そういう撮影ができる場所も学部の施設内にありました」
――なるほど、あの規模の予算の作品で、VFX的なことができたっていうのはそれもあったんですね。
奥山「はい。それは大きかったですね。とはいえ、結局、編集をねちねちやっていたら卒業に間に合わなくなってしまって。必ず完成させることを条件に、脚本を卒論として提出して、なんとか単位をいただきました」
――写真を撮るのにもハマっていた、とのことでしたが、そこがシームレスな感覚って、デジタルだからというのもあるんでしょうか? いまは一眼レフで動画を撮ったりするわけで、そこにあまり区分けがない感覚というか。
奥山「区分けなく考えていけたらいいなと思ってます。映画のカメラマン的な考え方で構図を切っていくというより、写真家だったり、それこそもっと広い意味での美術だったり、映画というよりも、そういうものの捉え方で構図を切っていって、それを積み重ねていけたらなって。自分が映画を作る時は、まずメインとなるシーンのショットを、なるべく具体的に明示するようにしていて。絵にも描きますし、絵にしても納得できなかった時はデザイナーさんを入れてカンプと呼ばれるイメージ画像を作るようにしてます。ロケハンで撮った素材や、出演する俳優さんの過去の写真も使って、その段階で自分のイメージに近いものを一枚画として1回作り上げていって。言わばすごく仮のポスターですね」
――それは『僕はイエス様が嫌い』の時から?
奥山「はい。一応、みんなが見る資料につけることもあるし、本当に内々に、自分しか見ないような時もありますけど、必ず何かしらは作りますね」
――「どのショットも絵葉書になる」みたいな使い古された言葉もありますけど、実際にそういう映画ってあるじゃないですか。特に今回の『ぼくのお日さま』はそういう映画でもあると言えるかもしれない。
奥山「はい。それは自分が目指したいと思ったことの一つです」
――ただ、そういうことを念頭に置かなくても優れた映画作家というのもいるわけですよね。美しいショットの追求ばかりを目指したら、そこでスポイルされるなにかが映画にはある。そこはどう克服していったんでしょうか?
奥山「ジャック・タチとかロイ・アンダーソンのように、静的に、一つ一つ構図にこだわって撮っていく。その上で、今回は特にフィギュアスケートという題材なので、そこで緩急をつけたいなと思って。動く時はしっかり自由かつ大胆に動いて、カメラを振り回し撮りたいところを追っていく。それ以外のシーンは三脚を据えてしっかり表情や、そこから浮かび上がる感情をフィックスで記録していく。そういうことを意識しましたね」
――『ぼくのお日さま』ではフィギュアスケートのレッスンが描かれるわけですけど、レッスンって要は反復じゃないですか。例えば、今名前が挙がったジャック・タチは”反復の快楽”にすごく意識的な監督でしたが、『ぼくのお日さま』ではレッスンというかたちでそれがストーリーラインの中で必然として描かれていて、そこに共通性を見出すことも可能かもしれませんね。
奥山「反復については『まさに』で、練習に関して言うと、ちょっとずつ上手くなっていくことによって2人の表情が変わったり、距離感が詰まっていたり、あとは練習を積み重ねたことで同じステップなんだけど、腕を組むようになったりとかして、ちょっとずつ進歩しながら変わっていく。反復には、同じことが繰り返されることで、逆にそこで“なにが変わったか”が明確になっていくという効果もあって、そこは意識的に取り入れてます。それとちょっと似た話としては、この作品は雪が降る季節がメインですけど、その前の秋だったり、雪が溶けたあとの春のシーンも多少あるじゃないですか。そこでは、なるべく雪が積もってる時と同じ構図で、同じ景色を切り取るようにして、その差異を映しだせればというのも意識しました」