『ぼくのお日さま』奥山大史監督の類まれなバランス感覚に宿る、“生まれたて”の表現【宇野維正の「映画のことは監督に訊け」】
「大人のセリフをちゃんとリアリティのあるものにするというのは、『イエス様』でやりたかったけどやりきれなかったこと」(奥山)
――なるほど。それと、これも一つの反復と言えるのかもしれませんが、『ぼくのお日さま』には前作『僕はイエス様が嫌い』との共通点がいくつもあります。一つは「子どもが主人公であるということ」。もう一つは、今回のタイトルはハンバートハンバートの曲名から取っていて、「僕」と「ぼく」で漢字とひらがなの違いはありますが、「一人称の”僕”がタイトルになっている」。そして、どちらも画面がスタンダードサイズで、デジタルで撮られている。まだ長編は2作しか撮られていないのでそれを作家性とするのは早急かもしれませんが、ご自身の作品のシグネチャーみたいなものついて、どの程度意識的なのか、あるいは無意識的なのかっていう話を伺いたいんですけど。
奥山「いま挙げていただいたことに関しては、それぞれ葛藤があって。たまたまハンバートハンバートの曲に出会えたわけですが、本当に曲のタイトルのままでいいのかとか、フィルムで撮ってみたい気持ちもあったりとか、今回もスタンダードサイズで撮ると『これが自分の映画です』みたいな作り手の気配が出すぎて邪魔になるんじゃないかとか。全部、いろいろ悩んだ結果なんですね。できれば一作目から遠くにジャンプしたいけど、ホップ、ステップ、ジャンプじゃないですけど、まずはいま自分ができる得意なもののなかでその高みを目指したいという気持ちもあったりして。結果的に、今回は『イエス様』でやりたかったけどやれなかったことを、まずはやりきろうと。だから、自分の得意なところ、好きなところを最大限そのまま取り入れて作ってみようと思いました。意識的に選んだところでいうと、スタンダードサイズに関しては、それでこそ切り取れる画角ってのは自分の中にはあるので」
――先ほどの話も踏まえると、スタンダードが、現在の奥山監督が最もイメージしやすいサイズということですね。
奥山「そうです。好きなんですよね、あの画角が。だから『イエス様』と一緒になるけれど、あえて別のことはやらずに極めてみようと。一方で、『イエス様』との一番大きな違いでいうと、『イエス様』は設定だけじゃなくてストーリーラインもかなり実体験なので。今回、『お日さま』においてフィギュアスケートは、自分の実体験ではあるんですけど、そこで実際にあの2人が経験することっていうのは、僕自身一つも経験したことがないこと。そういう意味で、”映画のために創作する”というのは今回初めてやってみたことです。それと、”大人の視点をちゃんと入れる”ということ。大人のセリフをちゃんとリアリティのあるものにするというのは、『イエス様』でやりたかったけどやりきれなかったことなので、自分にとっては挑戦だったかなと」
――それは、大人だけのシーンがあるかないかっていうことでもありますよね?
奥山「その通りです。若葉(竜也)さんと池松(壮亮)さんのシーンは、自分にとって挑戦であり、子どもから見た大人だけでなく、大人から見た大人を描いてみる、という課題に取り組んだものです」
――「前作でやりたかったけどやれなかったことをやりきろう」というのを聞いて、今回も主人公が子どもの理由がよくわかりました。ある意味、子どもが主人公の映画ってちょっとズルいというか(笑)、ここぞという時の必殺技というか、(フランソワ・トリュフォー監督の)『大人は判ってくれない』にせよ(ヴィットリオ・デ・シーカ監督の)『自転車泥棒』にせよ、子どもが主人公だったり重要な役で出てくる名作はたくさんありますけど、それを2作しか撮ってない監督が2作続けて撮るというのは、なかなか勇気がいることだと思ったので。
奥山「えっ、そうですか?」
――そこに、なんらかのオブセッションがあるんじゃないかと思われるリスクはあると思います。
奥山「でも、子どもの時に想像していたことを映像にしたいみたいなことは、ずっと思っていて。そうやって子ども時代を追体験してみたいというのは、自分が映画を撮ろうと思った動機の一つなのかもしれません。いま話に上がった『自転車泥棒』も大好きですし、(アッバス・キアロスタミ監督の)『友だちのうちはどこ?』とかもそうですが、ああいう映画を見てると、子どもの時、ちょっとしたことですごく落ち込んだり、ちょっとしたことですごくうれしくなったり、そういう感情の起伏みたいなものが呼び起こされる感覚があって。自分もそういう映画を作りたいっていうのは、素直な気持ちとしてあります。でも、次に映画を作る時も少年を主人公にするかっていうと、多分そんなことはないだろうし、そこにこだわっているわけではないんですけど」
「“生まれたての表現に出くわした”みたいな感覚にさせてくれる」(宇野)
――奥山監督のそういう素直さというか、自意識の希薄さというのは、例えば今作におけるドビュッシーの「月の光」の使い方にも感じました。というのも、日本映画で、少年少女が主人公で、一見自然に見えるけど作り込んだ作品世界っていうと、岩井俊二監督の諸作品を思い出したりもするんですけど。それを指摘されるのを恐れていないし、ちゃんと“生まれたての表現に出くわした”みたいな感覚にさせてくれる。
奥山「ああ…」
――それをやったら2番煎じとか言われちゃうのかなって、他の才能ある監督だったら避けそうなところにも、シュッと踏み込んでいけるというか。
奥山「そうですね…うん。でも、思いますよ、これだと結局“あれっぽい”にしかならないんじゃないかなってことも。例えば今回で言うと、おっしゃるように『月の光』を使うことによって『リリイ・シュシュのすべて』の影響について指摘されるんじゃないかとか、あるいは作品全体を通しての『リトル・ダンサー』からの影響だったりとか。でも、やっぱりそういうのも組み合わせ次第だなと思っていて。どんなに奇抜に見えるアイデアも、既存の要素の新しい組み合わせでしかないわけで、その組み合わ方をどうしていくかで、ただのオマージュや真似にはならないんじゃないかなって」
――そう。不思議なことに、全然オマージュ感はないんですよ。もちろん真似とも思わないし。
奥山「『月の光』に関しては、『青いパパイヤの香り』とか、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』とか、他の作品でも頻繁に使われているので、むしろそっちのほうが気になって。それでもあえて『月の光』なのかっていうのはちょっと迷ったんですけど。ただ、曲としてすごく映画的っていうか、あの儚さが映像にのせるとやっぱりとてもいいんですよね。あの感情的に振られすぎない感じがよくて、繰り返し流れても嫌じゃない。その”王道感”も含めて、さくら(中西希亜良)がアイスリンクを滑る時の音楽としてどうしても使いたいなって」
――映画は娯楽映画とアートハウス映画で全部が違うじゃないですか。製作予算から、宣伝の仕方から、作品の広がり方まで。日本映画の場合、むしろ世界に近いのはアートハウス映画のほうだったりもするわけですけど。そういう躊躇なくベタを踏み抜くような考え方って、娯楽映画においてはありがちで、大切なことでもあると思うんですけど、現時点で、奥山監督が属しているのはどちらかと言えばアートハウス映画の世界のほうだと思うんですね。
奥山「そうかもですね」
――前作『イエス様』ではあの規模感の作品でVFXを使ってみたり、今作ではそういう王道的な音楽の使い方をしてみたりと、奥山監督の作品にはそういう意外性がありますよね。
奥山「確かに。今回、カンヌ国際映画祭の『ある視点』部門で上映された時にも、現地のインタビュアーに同じようなことを言われました。『ぼくのお日さま』が上映されたのは、全体の日程で中盤を過ぎたあたりだったんですけど。それまでずっと『ある視点』の作品を観てきて、チャレンジングなテーマだったり、見たことないような映像表現だったりっていうのが続くなかで、突然真っ直ぐすぎる作品に出会ってすごく意表を突かれたって」
――わかります(笑)。
奥山「それも全然ねらってたところではないんですけど、ストーリーラインは王道でありながら、細かいところの描き方だったり、カット割りだったり、キャスティングの妙みたいなところで、それまで撮られてきた映画とは違う、ちょっと不思議な組み合わせができたらいいなと」
――先ほど言っていた“組み合わせの妙”ですよね。それは、過去の映画との対比においてもそうですけど、現代の他の映画との対比においてもそう思います。荒川(池松壮亮)のジェンダーアイデンティティの描き方もそうだし。
奥山「そこはとても迷いました。LGBTQ+に限らず、タクヤ(越山敬達)の吃音の描き方についても、どこまでどういうふうに描けばいいのかって。そういう設定を、物語を前に進めるための道具にしているように思われたくないので。今回、共同制作にフランスの会社が入っていて、スクリプトドクターとしてフランス人の方にも意見をもらったんですけど、そこでもいろいろ話し合いながら、取り入れられるものはなるべくすべて取り入れて、その上でやっぱり今回の作品においてこれは違うなと思うものは捨ててと、一つ一つ本当に悩みながら取捨選択をしていきました」
――その痕跡は作品から伝わってきました。「わかってない」みたいなことを言いがちな観客もいますけど、多くの場合、すべてわかった上で、いろいろ試行錯誤をしながらその作品に最も相応しい選択をしているわけで。そうじゃないと、特定のテーマにおいてはすべての作品が似てきてしまう。
奥山「本当にいろんなことがセンシティブというか。自分が気づかなかったことでいうと、例えばタクヤがお風呂に入る前に服を脱ぎますけど、あれも編集の段階になって、フランスのセールスエージェントから『これ、上半身を全部脱がないテイクはないのか?』みたいな意見もあったりして」
――1人だけのシーンであっても、ということですよね。
奥山「そうです。そこに関しては上半身着たままのテイクが無かったこともあり、自分の判断でそのままにして、映画祭で上映されてからも、誰からも指摘は受けてないですけど。ただ、制作段階でそういうことを言われるということは、過去に類似する指摘から問題となった映画があったのは事実だと思うんですよ。子どもの身体をどこまで見せるかっていう。そういう価値観は時代とともに変わってくるのは当然なので、そういったものは常に――たとえ作品の時代設定が少し昔だとしても――現代で映画作りを続けていく以上、繊細に、敏感にキャッチした上で、意識的にひとつひとつ選択していかなきゃなとは思ってます」