ヨルゴス・ランティモス監督が『憐れみの3章』で試みた既成概念の破壊、その不可解な物語に込められた意図に迫る
第1章「R.M.F. の死」
主人公は、プレモンス演じるロバート。彼は、デフォー演じる会社の上司レイモンドとは、公私ともに親密な仲だ。ロバートはレイモンドの要求に応えると、そのたびに相応の“ご褒美”を与えられてきた。
しかしある日、「猛スピードで乗用車を走らせ、人が乗っている特定の車に衝突してほしい」という旨の要求を受け、ロバートは狼狽することとなる。それは、「人を殺せ」と言われたも同然だからだ。「それだけはできません」と、彼は初めてレイモンドの求めを断ることにするのだった。そもそも、なぜそんなことをさせるのかも謎なのである。
ロバートが要求を断ると、彼の周囲で様々な異変が起こり始める。家に置いてあったレイモンドからの贈りものが消え、チャウ演じる妻も忽然と姿を消した。ロバートはあらゆるものを失っていくのだが、そのすべては、実はレイモンドから得たものだということが明らかになっていく。思えば、妻との出会いもレイモンドの指示によるものだった。
妻が消えた傷心のロバートは、かつてレイモンドに教えられた通り、高級なバーの廊下の床に倒れ込み、脚を怪我した姿を見せつけるといった作戦で、女性にアプローチをしようとする。レイモンドとの関係を断ち、彼の指示もないのに、その言葉に従っているロバートは、人格そのものまでレイモンドに提供されているのではないかと思えてくる。さらに、そうやって新たに知り合った女性リタ(ストーン)にも、レイモンドの影が見え隠れするようになる。
自分の存在意義に悩まされ、追いつめられたロバートの行動に、観客は驚かされることになるはずだ。しかし、真におそろしいのは、このエピソードが「ハッピーエンド」であるかのような演出で締めくくられることだ。起きていることの邪悪さと奇妙さが、肯定されているように見えるかたちで。
第2章「R.M.F. は飛ぶ」
警察官ダニエル(プレモンス)の妻であり、海洋生物学者のリズ(ストーン)が、調査に出た先で消息を断ってしまう。精神的に追いつめられたダニエルだったが、そこにリズが無事見つかったとの報告が届くことになる。彼女は生きていたのだ。
だが、帰宅を果たしたリズの反応の細かな部分に、ダニエルは疑問を持つようになる。ほぼ元通りの妻であるように見えるのだが、言葉の端々や食べ物の趣向などに違和感をおぼえてしまうのである。その疑惑はしだいに深まっていき、ついにダニエルはリズを偽者だと考えるようになる。さらには、そんな荒唐無稽な疑惑を同僚のニール(ママドゥ・アティエ)に相談したり、勤務中に異様な行動をとったりするようになるのだった。
奇行が続いたことで家に閉じこもるようになったダニエルは、食事を拒み始める。リズはダニエルへの苛立ちを隠せない父親(デフォー)を制し、夫を献身的に世話するのだが、ダニエルはいまだに彼女を偽者だと思っているので、その好意を決して信じず、逆に悪意をぶつけ続けていく。そしてついには、あまりにも異常な要求をリズに突きつけるのだった。目を逸らしたくなるほどのおぞましい展開を迎えつつ、ここでもやはり物語は「ハッピーエンド」を迎えてしまう。
第3章「R.M.F. サンドイッチを食べる」
ストーン演じるエミリーが主人公。彼女はアンドリュー(プレモンス)と共に、死者を蘇らせることができる特殊な能力を持った人物を探している。オミ(デフォー)とアカ(チャウ)が代表を務める、カルト宗教団体の教祖にするつもりなのだ。奇跡を起こせる教祖の条件は、双子の片方であり、もう一方が死亡していなくてはならないのだという。
夢のお告げによって、その人物の姿を認識したエミリーは、あるダイナーの従業員レベッカ(クアリー)が夢の人物にそっくりだということに気づく。そして、なぜか献身的に協力を申し出る彼女の導きによって、求めていた人物に接近することとなるのだ。
手柄を立てつつあるエミリーだったが、一方でトラブルに見舞われることにもなる。元夫(ジョー・アルウィン)によって、性的に清浄な状態が脅かされてしまうのである。じつは彼女が所属しているのは常軌を逸したセックス教団であり、信者は清浄な状態を保ちつつ、オミとアカとのみ肉体関係を持つことが許されるという、異常なルールを課されていたのである。
ヨルゴス・ランティモス監督は、これらのエピソードの異様さや、希望が描かれないと感じられる展開について、取材でこのように答えている。
「希望がない? 分からない…ただ私は、ハッピーエンドの映画を撮っただけだ」
希望を提示しないような内容の映画なら無数にあるが、それをハッピーエンドとして描いている作品は稀有だと言える。なぜなら映画の構造の多くは、主人公に共感をおぼえさせることで観客をストーリーに惹きつけるのが基本だからだ。もし、道徳的に間違っていたり、共感できない行動をとる主人公が設定されていれば、それは多くの場合、肯定的に描かれることはない。その意味で本作は、この前提を積極的に破りにきているといえよう。