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ヨルゴス・ランティモス監督が『憐れみの3章』で試みた既成概念の破壊、その不可解な物語に込められた意図に迫る

コラム

ヨルゴス・ランティモス監督が『憐れみの3章』で試みた既成概念の破壊、その不可解な物語に込められた意図に迫る

カミュやベルイマン監督が題材としてきた「神無き時代」

倫理性や論理性に縛られずに物語を語り、しばしば理不尽な惨劇を表現することを、一般に「不条理劇」と呼ぶ。その代表的な作家が、小説家・劇作家のアルベール・カミュだ。不可解な理由から殺人を犯す人物を追った「異邦人」や、感染症によって無作為に人々が死んでいく「ペスト」などの代表作がそうであるように、不条理で理不尽な出来事を物語に反映させているのである。

非常にわかりやすいことに、ランティモス監督は、本作の物語を考案する際に、カミュの戯曲「カリギュラ」を読んでいたのだと述べている。この物語は、万事完璧なローマ帝国の皇帝カリギュラが、ある日を境に豹変し、彼自身がペストや戦争の権化であるかのように、貴族、平民の区別のない無差別な虐殺を始めるといった内容だ。カリギュラの蛮行はまさに、理不尽、不条理の極致といえるだろう。

レイモンドに見放されてもなお、ロバートは本質的に彼から離れることができない
レイモンドに見放されてもなお、ロバートは本質的に彼から離れることができない[c]2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.

また、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督は、「神の沈黙」を題材とした映画作品を複数手掛けている。そこでは、神を愛する敬虔な人々が理不尽な目に遭うことを表現することで、神がいざという時になんの助けにもなってくれないという現実を突きつける。そこで人間がどういう心境にたどり着くのかが、この種のベルイマン作品の醍醐味となっている。

このような題材の源泉となっているのは、これらの作品が発表された時代に大きな影響力を持っていた、哲学者フリードリヒ・ニーチェの提唱した「神の死」や、ジャン=ポール・サルトルの「神の不在」という、哲学的概念であろう。近代的な社会の動きと時間の流れは、神の存在証明をより困難なものとしていったし、哲学における形而上的な位置ですら、その立場は危ういものとなっていた。カミュとベルイマンは、ほぼ同じ時代に、これらの影響を受けて「神無き時代」の葛藤と無常をテーマにしていたのだ。人は理由なく人を殺し、殺される。そこに神は介在しないのである。

特定の人間が「神」のような絶対者になり得る現代社会

本作『憐れみの3章』のエピソードとして共通に描かれるのは、自分の自由意志をコントロールできない人々だ。1章のロバート、2章のリズ、3章のエミリーらは、自分に強い影響を及ぼす人物の要求にコントロールされ、常軌を逸した行動に出てしまう。そこに、なんの意味があるのかもわからないままに。そして、それを要求した人物たちは、単なる生身の人間に過ぎない。

単なる人間を「神」のように崇め、翻弄されていく登場人物たち
単なる人間を「神」のように崇め、翻弄されていく登場人物たち[c]2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.

ここに、「神無き時代」の不安が表出されている。科学や哲学が神を殺してしまったことで、現代の多くの人々は絶対的な指針を失ってしまっている。これまでは人間すべてが神を敬うべき弱い存在であり、神の前では人間同士の優劣など、さして意味があるとはいえなかった。その価値観のなかでは唯一、神への信仰心と道徳的な生活が、人間の生きる意味だったといえる。では、神という存在が希薄になればどうなるのか。それは、特定の人間こそが「神」に取って代わり絶対者になり得るということだ。まさに、カミュの描いたカリギュラがそうであったように。

戯曲のなかでカリギュラは、「この世界は重要ではなく、それを認めている者だけが自由を勝ち得る」と語っている。これは、“在る”ということになんの意味も見出さない実存主義的な観念を持っている者にこそ、自由意志が芽生えるということを意味した、カミュ自身の言葉であろう。

ランティモス監督が本作で崩そうとした従来の感動のメカニズム

われわれ人間は往々にして、「人生に意味がある」ということを信じたいと願うものだ。そして、身近な人の死が無意味なものだということを信じたくないという想いを持っている。人間は本質的に、世界が根本的に不条理であること、人間の生はそもそも不条理であって、無根拠であるということから目を逸らそうとする。だからこそ、人間の価値を描く物語に涙し、苦難が報われる映画に心を震わせるのである。

なぜ人間は物語に“救い”を見出そうとするのか…
なぜ人間は物語に“救い”を見出そうとするのか…[c]2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.

しかし、それはある意味で“宗教的”な態度だといえるかもしれない。なぜなら、現実の世界では人間の価値や苦難の克服と同程度に、ややもするとそれ以上に、なんの意味もなく不幸な目に遭う人々が存在するからである。そういった無常観や恐怖に、日々さいなまれているからこそ、人々は感動の物語を必要とし、そこに救いを求めているのだといえる。映画や小説がそれを手助けするというのは、とどのつまり受け手の無言の要求に応え、従属的な姿勢でいるということである。

だがカミュや、ランティモス監督は、そんな人々の想いを引き裂くような物語を提供することで、われわれの夢を裏切り、反抗しようとする。それは作り手としての反逆的態度であると同時に、われわれをより現実的に則した思考へと導こうとする動きでもあるのではないか。そして、多くの映画作品が経験的に培ってきた、感動のメカニズムを破壊することでしか得られない境地へと、われわれを運んでくれるのだ。


ランティモス監督が『憐れみの3章』で提示した、劇映画の“新境地”
ランティモス監督が『憐れみの3章』で提示した、劇映画の“新境地”[c]2024 20th Century Studios. All Rights Reserved.

このように、飛び抜けて自由で、どこに転んでいくのかわからない意図が不明のスリルを観客に与えてくれる本作『憐れみの3章』は、3つのエピソードを重ねることで、非常に意識的に観客の既成概念を崩そうとねらってくる。そして、「神無き世界」という前提を乗り越え、劇映画の常識すらも乗り越えた地点で、われわれに思考を促そうともしてくる。どのような考えを得るかは観客次第だが、そこに“より自由な”境地があるということこそを、本作はうったえたいのではないだろうか。そして、そんな体験を引き出そうとする、“意図ならざる意図”こそが、本作の本質だと指摘できるのである。

文/小野寺系

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