『アイ・ライク・ムービーズ』を徹底レビュー!「悔しみノート」の梨うまいが、大人ぶりたい少年の物語を通じて見つけた真の大人になる方法とは?
ローレンスの大やらかしが破壊した、アラナの“大人”としての仮面
誰しもがかつて10代で、当然のように自分の理想の将来を思い描いていた。そして皆、恥をかいて、傷ついて、次第に自分がいかに恵まれていて、与えられていて、その実自分のものは何も持っていなくて、賢いつもりでいるだけのバカだったかを思い知っていく。ご多分に洩れずアラナもそのうちの一人で。理想の自分になれない苦しみを無理やりに押し込んで、ローレンスのような子どもが、ちゃんと子どものままでいられるように、必死で大人の役割を演じてきたにすぎなかったのだ。もしかしたらローレンスを雇うまで、アラナはもう少し自分のままでいられたんじゃないだろうか。店長という役割は果たさなくてはならなかったにしても、進路の相談を受けたり、家まで送り届けたりという“大人の役割”はしなくても良かったはずだ。ローレンスが羨望の眼差しでアラナを見る限り、彼女は身の丈以上の大人を演じ続けなくてはならない。彼女が苛立つのも無理はない話だ。
考えてみれば、私もまだ傷ついたままの子どもなのだった。あれっていったい何だったの?私ってあんなふうに裏切られて、傷つけられても仕方ないほどバカだったの?答えが欲しい、傷ついただけの見返りが欲しい。この人生への信頼を取り戻したい。きっと私だけじゃない、多くの人の中には途中で時間切れを告げられ、存在を無視された子どもが「まだ大人なんかじゃない!」と泣き喚いている。誰に“大人でいること”を強要されたわけでもないのに。そう、誰も直接求めてなんかいない。ただ、あなたや私の中の社会性や責任感、そしてプライドが歩みを止めることを許さず、“大人”という役を引き受けているだけなのだ。
好き好んで大人のフリをしようとするローレンスと、仕方なく大人のフリをしているアラナ。ふたを開けてみれば、力量の差はあれど、どちらも大人を演じていただけだったのだ。本当は、“ただのローレンス”と、“ただのアラナ”。でも職場というコミュニティで店長とアルバイトとしての関係をもって顔を合わせる限り、お互いにありのままでいることはできない。じゃあ、もしもコミュニティから外れたならば…?ローレンスの大やらかしが、そのもしもを実現し、結果としてアラナの“大人”の仮面を破壊した。
これから観る人には大いに楽しみにしてほしいのだが、映画終盤、もうびっくり、頭抱えちゃうくらいのやらかしをローレンスはぶちかまし、レンタルビデオ店に大損害をもたらしてくれる。もしこれが現実で、自分が関係者の立ち位置だったらマジで笑えないけど、スクリーン越しの他人事なので私はめちゃめちゃに笑ってしまいました。やらかしローレンスは自分で責任をとることすらできず、完全に子どもであることが証明されてしまい、これまでの苛立ちも相まって大爆発したアラナは、体裁をかなぐり捨ててブチギレる。落ち着いた大人像など見る影もない。もはや爽快である。「失敗を恐れるな」、みたいな名言やら格言やらって掃いて捨てるほどありますけど、まあ確かに自力で脱げなくなった鎧をこんなふうに不可抗力で打ち砕いてくれる点は良いですよね。あとからいくらでも笑い飛ばせるんだし。ローレンス、ナイス大失敗!
自分の子どもな部分を認められた時、人は大人への一歩を踏みだせる
大人への第一歩は、自分を子どもだと認めることだ。そして必死に着飾っていたものを全て脱いで、未熟な姿を正面から見つめ、傷にはきちんと手当てをして、足りないところもなかなかチャーミングだわと鏡の前でにっこり自分に笑いかけてやることだ。
人からどう見られたいかというプライドから自由になったとき、人ははじめて「あなたの好きな映画は?」という問いに本当の意味で答えられる。互いにレンタルビデオ屋の従業員ではなくなり、ただのローレンスとただのアラナとして顔を合わせたカフェのシーンで、ついにアラナが「I hate movies」なんて言葉を覆して、嬉しそうにその問いに答えるのが、なんだかこちらまで嬉しくて、とてつもなく満たされた気分になった。さらにその作品のチョイスも、アラナという温かくてユーモアにあふれた美しい人柄を表していて、この先忘れがたい幸せな場面として心に焼き付いた。そして私は、私の人生を愛していける自信をこの映画から受け取った。
もし誰かに「好きな映画は?」と聞かれたら……散々悩んで絞り切れずに色んな映画の名前を挙げるとは思うが、その中に『アイ・ライク・ムービーズ』が入るのは間違いない。
文/梨うまい