『Fukushima 50』はどのように作られた?細部まで忠実に再現された、事故当時の“真実”【前編】
2011年3月11日午後2時46分に発生した日本観測史上最大の東日本大震災と、それによって引き起こされた巨大な津波がもたらした福島第一原発事故。日本人の誰もが経験し全世界が震撼した、決して風化させてはいけない事故の真実を、佐藤浩市と渡辺謙、吉岡秀隆、安田成美ら実力派俳優たちの共演で描きだした『Fukushima 50』(フクシマフィフティ)が、3月6日(金)より公開となる。日本映画最大級のスケールで描かれる本作は、一体どのように作られたのだろうか。このたび、前後編にて本作のメイキング記事をお届けする。
本作の原作は、福島第一原発の関係者90人以上への取材をもとに綴られた、ジャーナリスト門田隆将のノンフィクション作品「死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発」。想像を超える被害をもたらした原発事故の現場に残り、世界のメディアから“Fukushima 50”と呼ばれた地元福島県出身の作業員たちが、愛する家族と日本を守るために死を覚悟して立ち向かう姿が展開していく。
メガホンをとったのは『ホワイトアウト』(99)と『沈まぬ太陽』(09)で2度の日本アカデミー賞優秀監督賞に輝く巨匠・若松節朗監督。本作について「福島で事故が起きた時、最前線で命をかけて頑張った人たちがいたこと。その“真実”を世の中に知らせる映画を作ろうと思った」と語るように、事故当時の様子を忠実に描くために細部にまでこだわり抜いたことが作品から見て取れる。
映画のメインの舞台の一つとなる、福島第一原子力発電所内の1・2号機中央制御室(通称:中操)は、東京・調布市にある角川大映スタジオ内に建てられた。その広さはもちろんのこと、中操の壁に並ぶ計器は50年もの間操業していた原子力発電所とまったく同じデザインが再現されるほどの徹底ぶりで、事故当時に中操で作業をしていた原発運転員の方もセットを訪れ、あまりの再現度に感動していたというエピソードも。それには若松監督も手応えをのぞかせていた。
手動でベント(格納容器内の空気を排気すること。原子炉の圧力上昇を抑える水冷装置であるサプチャン内の水を通して排気することをウェットベント。直接排気することはドライベントと呼ばれている)を行う上での最前線となった中操は、停電の時間などもあって基本的には薄暗い状態が続いていた。そこで指揮を執るのは1・2号機当直長の伊崎利夫。緊対にいる吉田昌郎所長からの指示を受け、高い放射線量の中で誰がベントへ向かうのか決める際には、自ら覚悟を決めた伊崎に呼応するように、不安を抱える他の運転員たちも次々と手を挙げていく。
そのシーンの撮影では、伊崎を演じた佐藤浩市をはじめとしたベテランのキャストたちの毅然とした表情に引っ張られるかのように、若いキャストたちの表情も真剣そのものに。ワンカットごとに現場の緊張感は増していったのだとか。また元運転員の方からの「緊急時も走ってはいけない。急ぐ時は早足で」というアドバイスのもと、人物の動きにいたるまでリアリティが追及されていたとか。
中操のセットでの撮影で最も過酷を極めたというのが、1号機原子炉建屋の爆発時のシーン。突然の爆発によって激しい振動が襲い、若松監督からの「予期しない揺れでパニック状態に」という指示のもと、運転員を演じるキャストたちは防護マスクを探して右往左往し、そこへ天井の板や蛍光灯が落下してくる。この落下は手動で行われており、天井板や蛍光灯が細かくワイヤーで繋がれ、セットの脇でそのワイヤーを持ったスタッフがタイミングを見計らって手を離すという方法で撮影された。
しかし一度落としたら、元の状態に戻すまでには長い時間がかかる。現場には“一発勝負”の緊張感が漂った。そして若松監督の「バーン!」という掛け声と共に見事に天井が崩れ落ち、セット中にホコリが舞うのに合わせてスモークが焚かれる。俳優たちも椅子から転げ落ちるなどパニック状態を演じながらも、怪我をしないようにと立ち位置には最新の注意が払われたのだとか。そうして作品のなかで最もチャレンジングなシーンの撮影は無事に終了し、爆発時の生々しい映像が生みだされることとなったのだ。
文/久保田 和馬