“国際”映画祭の名が泣く、狭量な言語ナショナリズム。シッチェス国際ファンタスティック映画祭の場合
今年も10月7日から16日までシッチェス国際ファンタスティック映画祭が開かれる。“ファンタスティック”の定義に含まれるホラー、アニメ部門で日本は映画大国なので、毎年たくさんの日本映画が上映され、日本人監督も数多く招待されている。遠くスペインでの開催とはいえ、我々には馴染みの深い映画祭である。
昨年初めて取材させてもらったのだが、バルセロナ近郊のひなびたリゾート地というロケーションだから、期間中は街が映画祭一色に染まる。連夜のオールナイト上映会もあって24時間どこかで必ず何かの映画が見られイベントがあるという、映画好きには夢のような10日間だった。
本部の情報提供や取材のサポートという点でも素晴らしかった。日本でなら当たり前のどんな質問にも即答してくれる人がいて、「わかりません」という人がいないことが、スペイン感覚に慣れた者からすればどんなにありがたいことか。毎朝7時にスタートし5分間ほどで受付終了となる特別上映会のオンライン予約は早い者勝ちなのだが、システムダウンなどのトラブルは一度もなかった。私はサッカージャーナリストだからスペイン国内リーグや国際試合などの取材をしているが、オーガナイズという点ではこちらの方がはるかに上だと感じた。ただ1点を除いては……。
シッチェスはカタルーニャ地方にある。よって外国語の通訳がすべてカタルーニャ語なのだ。
私はスペインに住んでいるのでスペイン語での取材活動は問題ない。だが、スペインのカタルーニャ地方だけで話されるカタルーニャ語は、半分くらいしか理解できない。映画祭のホームページは英語、スペイン語、カタルーニャ語だから問題なく取材申請ができた。現地スタッフもスペイン語をしゃべれるし、外国映画の字幕もすべてスペイン語だった。しかし、外国人監督のスピーチや会見に限って通訳はカタルーニャ語のみだった。例えば、スペインでも人気の園子温監督の記者会見に集まったジャーナリストは、わずか十数人ほどという寂しさだった。それもそのはず、カタルーニャ語か日本語を理解できない者は出席しても仕事にならないのである。
カタルーニャで開催される映画祭なのだからカタルーニャ語で行く、というナショナリズムは理解できる。しかし、カタルーニャに住む者全員がカタルーニャ語をしゃべれると仮定してもカタルーニャ語の話者は世界に760万人しかいないのに対し、スペイン語の話者はスペインだけで4600万人、世界中には4億2000万人もいる。単純に数の問題で、国際的な情報発信ツールとしてスペイン語の方が有効なのは明らかである。しかも、カタルーニャ人はスペイン語との完璧なバイリンガルだからカタルーニャ側に実害はない。
害があるとすれば、カタルーニャのプライドが傷つくとか屈辱だとかの感情面だろう。ならば、“不本意だが、スペイン語しかしゃべれない者にサービスしてやる”というくらいの気持ちでやればいいではないか。それでも、“スペイン人がカタルーニャ語を学べばいい”というメッセージよりははるかに美しいと思うし、実益としてシッチェス映画祭の影響力が上がることは間違いない。今年も取材に行くつもりだが、広報に取材したところ、やはりカタルーニャ語の通訳だけでスペイン語の通訳は付かないという。残念だ。
バイリンガルであることは美徳である。カタルーニャ語とスペイン語をしゃべれることは、スペイン語しかしゃべれないことよりも優れている。ところが、カタルーニャ独立の機運が高まるとともに、カタルーニャ語しかしゃべらないことがまるで良いことのように言われ始めている。寛容であるよりも狭量であることのほうが“愛国的である”とされ始めているのだ。それは、豊かさとか多様性とかの国際映画祭の価値観とは、決して相容れないものだと思うがどうか。【取材・文/木村浩嗣】