富田克也&相澤虎之助とアピチャッポン・ウィーラセタクン監督が語り合う、“国境を越えた映画づくり”の秘訣
「仏教に基づいた生き方は、意味のある生き方をすること」(ウィーラセタクン)
ウィーラセタクン「『典座-TENZO-』も拝見しましたが、こちらもとても心に触れた作品でした。僧侶として生きるということを深く学べたと同時に、タイとは違う日本の僧侶、日本のあり方に興味を持ちました。仏教哲学にも惹かれるものがありました」
富田「光栄です。以前フランスのパリの劇場でピージョーにばったりお会いした時に、僕は喜んで手を差し出したら、ピージョーは真剣な顔で『これはカルマだよ』とおっしゃったことが印象に残っています。もちろんタイは敬虔な仏教徒の国ですが、ピージョー自身はブッディズムについてどう思っているのでしょうか?」
ウィーラセタクン「いまの時代は非常に自分を内省する機会になったと同時に、周りの人との繋がりを考える機会になったのかもしれない。仏教に基づいた生き方は、人生を楽しむと同時に、周りのことを把握しているということで、いまを生きるということ。意味のある生き方をすること。いま取り乱さずに正常な心を保つことができているのは、仏教のおかげかなと思っています。
『典座-TENZO-』を拝見した時に最も響いた部分は、尼僧の言葉にいろいろな人生や、いろいろな人が互いに影響しているという話があったことです。動物であれ植物であれ、それぞれの生き方に意味があって、それを頂いているのに自分の身は誰にも与えていないということ。殺生しているばかりだからこそ、感謝を持つべきだということ。それを聞いて、私も考えさせられるものがありました」
「非日常に身を投じ、長い時間をかけて日常にする努力をする」(富田)
相澤「先ほどピージョーがおっしゃったように、外国の文化と出会うと目が開かれる気がして、それが一番大切な部分だと思っています。そこから脚本を書く時には人とのつながりのなかから言葉をいただいていて、人との出会いのなかで物語は生まれていく。もちろん風土や歴史も、自分の目が最初に開かれないとですが。それが多分入り口なんだなと思っています」
ウィーラセタクン「『バンコクナイツ』はある意味で奇妙な描き方といえるでしょう。あの世界は地元に生きる人からは見えない世界。バーで働く女性たちのシーンや、時間軸の捉え方が個性的。特に後半で東北部に移ってから映画の個性がさらに際立っていきました。事実と記憶が交錯して、幽霊や神話も出てきて、タイではみられないタイプの有機的な映画。外国人から見た発見が投影されていますね」
富田「僕ら外国人が異国の地で映画を撮るためには、非日常のなかに身を投じるけれど、しばらく非日常にいることで日常になっていく。もちろん非日常のまま映画を撮ってしまうと表面的なところでミスをしてしまうので、僕は長い時間をかけて日常にする努力をしていますが。でもピージョーがおっしゃった後半部分の肝になるところは、非日常のうちに感覚的に捉えたものだと思います。
その非日常の瞬間は長く続かないもの。その短いなかだからこそ気が付けるインスピレーションもあって、それは人間の細胞の奥に触れるような記憶を、その瞬間に感知するような気がしています。ピージョーの映画を観ていると、そういった表現がいつも必ず出てくる。『光りの墓』では恐竜のオブジェが何回もインサートされていたり、人間を超えて地球の記憶に直結しているものを、人間が感知しているというブッディズムにもつながると思うのですがどうでしょうか?」
ウィーラセタクン「『光りの墓』は私が以前住んでいた場所に戻って撮った作品でした。そこで映画を作るという経験は、アウトサイダーになって発見したことが反映されている。かつて気付かなかったことを違う目線で見ることができるのです。コロンビアでも同じ経験をしました。そしてタイに戻ってきた時に、離れていたことで新たな発見もありました。離れて戻って、移動したところで身を置いて自分のスイッチを入れる。お二人は日本から離れて、しばらく経って戻ってくるとどんな感じですか?」
相澤「ある意味異邦人になって帰ってきたというか、日本のことがよく見える気がします。相変わらず政治は腐敗していると、よく見えるようになりました」
富田「それは強く言っておきましょう」
ウィーラセタクン「いやいや、タイには到底及びませんよ(笑)」
富田「そういう意味ではタイを羨ましく思います。民衆がすぐに立ち上がる姿は、良くも悪くも尊敬しています」
ウィーラセタクン「私の世代ではそう身軽にできない部分もありますが、いまは若い世代が活動をおこしていますね。正しくないと思うことがあると組織して活動を起こす。違う世代でも、私も触発されていますね」