「死とは?老いとは?」作家・冲方丁が『Arc アーク』で感じた“まったく新しい死生観”
「“老い”をひとつの選択として捉えられたらすばらしい」
――「不老化処置」実現の記者会見で、「死があるからこそ、人生に意味があるのでは?」という記者からの質問に、リナは「それは死を選ぶ以外に選択肢がなかった人類を慰めるためのプロパガンダにすぎない」と反論します。この台詞について、どう思いますか?
「非常に難しいですよね。というのも、かつては、不老不死は観念的に答えを見出すべきものだったんです。宗教的であったり、あるいは娯楽においてだったり…。それが本当に実現するかもしれないという段になると、観念だけでは成り立たない、具体的な自分の人生として考えなきゃいけない問題になってしまうわけです。死の基準値が変わると、人生も変わってくるので。死というものを、どう捉えるべきか…。もうぜんぶやり直し、っていう感じでしょうね。この映画を観て、ますますこれからの倫理というのは、過去に蓄積されてきた先人たちのすべての知恵を総動員して、新しく作らなきゃいけない時代になったんだなと思いました」
――「不老不死」にもデメリットはあるでしょうか?
「個人の幸せとは別にして、いろんな問題が考えられますよね。例えば、人間が1000年生きる場合、一人が消費する食料とエネルギーの量は桁違いになってきます。人間も動物も植物も、ある個体が死んでくれないと困ることって、たくさんあるんですよ。人口も増え続けるので、空間も占拠され続けますし。あまりにも脳の情報が増えすぎちゃって、これ以上、なにも頭に入らないという状態になる、かもしれませんし。
あともう一つは恋愛ですね。不老不死になった場合、“つがい”という考え方自体がまず無理なんじゃないかと思うわけですよ。もういま、人生90年時代になっていますが、例えば20歳くらいに結婚したら、あと70年間一緒にいるわけですから。それが不老不死なら、絶対に飽きるだろうっていう(笑)。身体が年を取らなければ、出産も無限に引き延ばしができるので、子どもをいつ産むか問題も出てきますね。死が遠ざかったぶん、考えなきゃいけないことが増えて大変だなという気分ですね(笑)」
――本作のように「不老化処置」が可能になったら、どのような選択をしますか?
「この映画の中では、若返りの技術は発達していないんですよね。なので、その時自分が何歳なのかが重要なポイントになりますね。例えば、未熟な状態のまま止まりたくないので、15歳では絶対に受けたくないです。80代では、もうさっさと殺してくれっていうふうになるでしょうし(笑)。その時、自分が社会的にどんな役割を与えられているかによっても、考えが違ってくるでしょうね。作家としての仕事があるいまだったら、年をとっても退屈しないぞという自信があるので、もうちょっと長く生きてもいいかなと思いますけど」
――劇中では「不老化処置」は自分の意思で止めることもできるという設定でした。
「老いというものを選択肢として捉えることができる、というのは、実は老いに対する積極的で肯定的な考え方なんですよね。老いることは、一方的に自分の肉体から何かが奪われていくわけではなく、自分の選択であると思えるようになる。リナが『それがいま、私が信じることができる神話である』と、非常に力強い、健やかなメッセージを送っていますけれど、それはこれから万人が本当は欲しがっているものなんですよね。今後、この映画がむしろ現実に影響を与えるような気がします」
――ご自身と同世代のSF作家であるケン・リュウの作品の魅力は、どんなところにあると思いますか?
「ものすごく端的になにが魅力かと言うと、この人の“知性”ですね。感情や対象との距離の取り方が大変うまいんです。SF的なギミックや、センス・オブ・ワンダー、あるいは科学知識を題材として、どう扱うかという時に、感性もそうですけど、なにより知性が問われるので。だからこそ、倫理的にエンタメを描くことができるのかなあと思わせられますね。ただ、彼の作品の映画化はとても難しいと思いますよ。作るほうも問われますから」
――作家として、本作からなにか刺激を受けたことがありましたら教えてください。
「僕自身が究極まで人生を生きたらどうなるんだろう、ということを改めて考えさせられましたね。不老不死というアイデアは、一回は書かなければいけない宿題みたいなものなので(笑)、その挑戦意欲も非常に掻き立てられました。『Arc アーク』とは違う物語をいつか僕も書きたいなと思いましたし、その時には本作を観た体験が大いに刺激になると思います」
取材・文/石塚圭子